【おおまか経済7 応仁の乱の動員兵力は?】
教科書などによると、応仁の乱では、「東軍16万・西軍11万」であったという。そんな多いはずがないだろう、と思う。そこで、本当の兵力を推計したい。手順は以下の通り。
1467年の東軍・西軍の諸大名の石高を推計し、兵力を推定する(1万石で兵250)
そこから、各大名が京に向けて動員できる兵力を推定する。基準は、次の通り。
●近隣に兵:総兵力70%(根拠:1434~1435年、「永享の山門騒乱」山城国伏見荘『着至』)
●隣国に兵:総兵力55%(根拠:1575年、上杉謙信の越中出陣の『御軍役帳』)
●遠国に兵:総兵力30%(根拠:1559年、長尾景虎の上洛)
大内政弘が、一四六七年七月二十日に兵庫に到着し、八月二十三日、上洛して西軍に加わった時点。「西軍の増強に恐れを抱いた足利義視(東軍に肩入れ)は伊勢に出奔した。更に、義政の近習の一部が西軍に内通しようとした。」と書いた(【戦線膠着】)。この時の東西両陣営が京に動員できた兵力を推定しよう。
<東軍>
・細川勝元一族:131万石・兵力32,861(摂津和泉丹波55%+他30%))⇒12,925
・畠山政長(1467年1月8日まで、河内半国・紀伊・越中守護、紀伊は9割が高野山・根来寺領):50万石・兵力12,500(河内半55%・紀伊越中30%)⇒4,421いたが、1月18日から19日の御霊合戦で敗れて2,000に
・京極持清(北近江・比叡山除く、出雲飛騨):43万石・兵力10,750(近江の領国55%・出雲飛騨30%⇒4,796
・武田信賢(安芸・若狭)、富樫政親・赤松政則(加賀)・山名是豊(山城・備後)・仁木政長(伊賀):77万石・兵力19,373(30%)+14万石・兵力3,733(70%)⇒8,424
→12,925+2,000+4,796+8,424=洛中動員可能兵力28,145
<西軍>
・山名宗全一族:110万石・兵力27,686(播磨55%+他30%)⇒10,557
・畠山義就(河内半国+大和土豪兵1,000):10万石・兵力3,500(河内半国55%+1,000)⇒2,375
・能登(畠山義統)+北伊勢志摩丹後(一色義直)+南近江(六角高頼)+美濃(土岐成頼):111万石・兵力27,613⇒9,892
・御霊合戦で畠山政長領国が西軍に:河内半国・紀伊⇒畠山義就、越中:畠山義統に4,421-畠山政長のもとに残った兵2,000=2,421が東軍から西軍に
・尾張遠江(斯波義廉):51万石・兵力12,951⇒3,885
・朝倉孝景(越前):47万石・兵力11,793⇒3,537
・大内政弘:79万石・兵力19,897(30%=5,969)+河野通春:26万石・兵力6,593(30%=1,977)+石見勢:9万石・兵力2,373(30%=711)⇒8,657
→10,557+2,375+9,892+2,421+3,885+3,537+8,657=洛中動員可能兵力41,324
つまり、どれだけ多く見積もっても「東軍28,000程度・西軍41,000程度」である。西軍の優位に足利義視が逃げ出したのも分かる。
足利義視自身が記したとされている『都落記』によると、足利義視は、七月十三日までは室町殿に参仕していた。合戦が行われる中、室町殿は静かになっていった。しかし、
『女中などの儀もむつかしく』(都落記)
“女中(「日野富子」であると、大薮海「列島の戦国史2応仁・文明の乱と明応の政変」94頁は解釈している)が不快な様子でおり”
義政が気兼ねしているような窮屈な様子にみえ。西軍との決別を避けたかった穏健派の日野富子が東軍の主戦派の足利義視を邪魔に思っていると感じたので、ひとまず自らの屋敷に戻ることにしたという。
七月二十日、西軍の大内政弘が兵庫に到着し、八月中旬から世情が物騒になったので、二十日夜に足利義視は 鎧を着け、武装させた供を連れて室町殿に参上しようとした。しかし、細川勝元から妨害を受けた。屋敷に戻った足利義視のもとに細川勝元が自らを害そうとしているとの情報が方々から入り、自害しようとするが、近臣たちに説得されて思いとどまり、大内政弘が上洛した二十三日の暮れに、義政へ文をしたためたうえで、京を脱出することにした、そうである。
どうやら東軍内で孤立していたところに、大内政弘の大軍が到着して、駄目押しとなったようだ。




