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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【戦線膠着】

一四六七年五月、室町殿の諸門は閉ざされ、将軍足利義政は中立の立場を堅持した。二十六日、義政は畠山義就に御内書を送って河内への退去を促し、二十八日、細川勝元・山名宗全の双方に戦いを止めて指示を待つように命じた。

 六月一日、細川勝元が義政に将軍旗と山名宗全治罰の綸旨の拝領を願い出た。三日、義政は勝元に将軍旗を与えた。九日、幕府軍の地位を得た東軍に対し、西軍の土岐成頼・六角高頼・富樫政親が降伏を申し入れた。義政は疑い、山名宗全や畠山義就に攻めかかるまでは対面しないと返答した。結局、寝返ったのは富樫政親のみであった。

 斯波義廉も東軍に降伏しようとした。だが、義政は「朝倉孝景の首を差し出さなければ許さない」と返答した。孝景は義廉軍の実質的大将であり、義廉は応じず降伏を止めた。


 劣勢の西軍は京への軍勢集結を進めた。六月二十八日、安芸・石見・備前・但馬・備後・播磨の六ヵ国の西軍が、丹波から入京した。万余りの軍勢であったと考えられている。そして、七月二十日、大内政弘が周防・長門・筑前・筑後・安芸・石見・伊予八ヵ国の軍勢を率いて兵庫に到着した。八月二十三日、大内軍は八千で上洛し、東寺に着陣した。

夜、西軍の増強に恐れを抱いた足利義視(東軍に肩入れ)は伊勢に出奔した。更に、義政の近習の一部が西軍に内通しようとした。勝元は激怒して将軍御所を包囲し、内通者二十名余りを御所から追放した。

 十月二日から四日、相国寺の戦いが行われた。西軍は相国寺を一時占領し、将軍御所に動揺が走った。このとき、東軍の細川成之が御所に入り、落ち着き払った態度で殿中の動揺を静めた。成之は家臣の東条河内守を畠山政長と共に相国寺の奪回に向かわせて勝利し、西軍の大攻勢を打ち砕いた。この戦いで、相国寺は焼け落ちて将軍御所も半焼したが、この戦いを機に洛中では大きな合戦は起こらなくなり、戦線は膠着に陥った。


 一四六八年三月二十一日、伏見稲荷社を拠点に西軍の糧道を遮断した東軍の骨皮道賢が、西軍の畠山義就の家臣に捕らえられ、斬られた。

 八月、義政は伊勢に逃れる弟義視に上洛を促した。九月二十二日、義視は東軍の陣に入った。この時、何故か義視は兄義政に対して諫書を送り、佞臣たちを斥けるよう訴えた。だが、義政は反発し、閏十月十六日、伊勢貞親を政務に復帰させた。むしろ側近団を復活させ、膠着に陥った東西両軍の終戦工作を本格化させようとしたのである。十一月十三日、貞親の復権で立場を失った足利義視が比叡山に逃れた。

 これに目を付けたのが山名宗全であった。二十三日、義視は比叡山から帰京し、西軍の斯波義廉の陣に入った。翌二十四日、西軍諸将がこれに馳せ参じ、義視を将軍と仰いだ。これを「西幕府」と呼ぶ。かくして、洛中には、東軍の義政・西軍の義視の二人の将軍が併存するようになった。戦線は洛中から、東山・山科・鳥羽など京周辺地域に移った。

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