【応仁の乱】
一四六六年十二月、細川勝元・畠山政長と対立した山名宗全は、政権を奪取するために、河内の畠山義就と提携し、その上洛を呼び掛けた。二十六日、畠山義就が軍勢を率いて入京した。これに対する将軍足利義政の対応はあいまいであった。翌一四六七年一月一日、管領畠山政長が将軍御所に参り、「おう飯」を義政に献じた。義就ではなく政長を信任するという姿勢をとったのであるが、翌二日義政は政長邸への御成りを中止して、将軍御所で義就と対面した。これでは、義就を引き立てると宣言したようなものであった。
五日、義政は畠山政長邸への御成りを止め、山名宗全邸にいる畠山義就を訪れた。足利義視や諸大名らもこれに従い、細川勝元・畠山政長・京極持清のみがこれに従わなかった。六日、義政は政長を管領から罷免し、八日斯波義廉を管領に任じた。政長が守護をしていた越中・河内・紀伊が没収され、畠山義就に安堵された。
十五日、細川勝元・畠山政長らは御所を囲み、義政から畠山義就の討伐令を引き出そうと計画した。だが、勝元夫人から山名方に漏れ、山名宗全・畠山義就・斯波義廉が警備の名目で御所を占拠した。十六日、宗全は足利義視を御所に移し、完全に政局を握った。
十七日。窮した畠山政長が自ら邸に火を放ち、上御霊社の林に立てこもった。細川勝元邸は神社の西側にある。勝元の決起が促されたのである。政長は上御霊社の陣から将軍御所を窺う姿勢を見せた。合戦に巻き込まれることを恐れた義政は、畠山氏の争いに味方してはならないと諸大名に命じた。ために、宗全も勝元も動かなかった。
しかし、申の刻(午後四時頃)、畠山義就軍と朝倉軍が政長方への攻撃を開始した。将軍御所は山名方に組み込まれている。奉公衆五番衆筆頭大舘持房は、義政の意図をくんで甲冑を身に着けず、平服で床に座して将軍を警護した。将軍は局外中立である。番衆八十余騎とその家臣数千人は黙々と義政を警護した。持房は、山名方の朝倉孝景からの、室町殿の西門前にある一色義直の邸を細川方から放火される前にこぼちたいという申し出を断固拒否した。動かぬ勝元に、敗北を悟った政長は上御霊社に放火した。軍勢はちりぢりになり、戦闘は短期間で終結した。政長の敗北であった。
幕臣の幕府への出仕が再開される中、政長を見捨てた細川勝元は面目を失った。屈辱に震える勝元は山名方に対抗するため大動員を始めた。三月五日、応仁への改元が行われた。
五月細川方の山名方の領国攻撃が続き、京には両軍の軍勢がのぼり、東西の陣ができた。
●東軍:細川一族・京極・赤松・武田・斯波、大和の成身院光宣、京都西岡の土豪
東軍は、細川邸から室町殿を包み込む形で京の東北部一帯に陣を築いた。
●西軍:山名一族・畠山・斯波・土岐・六角・一色
西軍は山名邸・斯波邸を包んで京の西部から中央部に陣を築いた。
二十四日、東軍の成身院光宣が一色邸の西側にある幕府直属の土倉正実坊を攻め取った。二十六日、東軍の総攻撃は、細川成之・武田信賢らの一色邸攻撃によってはじまった。西軍もこれに反撃し、戦火は京北半一帯に広がった。




