【関東の代替わり】
一四六二年、太田道真が武蔵国入西郡越生の龍穏寺に隠棲し、子息の左衛門大夫が太田家の当主となった。のちの太田道灌三十一歳である。一四五九年の羽継原の戦いで太田荘が合戦場となるなか、太田父子の動きは機敏であった。鶴岡八幡宮の所領経営、要地の代官職といった問題に盛んに介入し、相模から武蔵南部一帯にわたる広範囲への徴税を行う中、太田父子はこれらの地域の実質的な統治者となったのである。
『国の事御成敗候』(伊勢神宮の神官荒木田氏経の太田道真・左衛門大夫への書状)
”(太田様父子は)相模国の御成敗をなさっています”
一四六三年八月、山内上杉家では、家宰長尾景仲が亡くなり、子息の長尾景信(白井長尾)・長尾忠景(惣社長尾、景信の弟)兄弟に世代が交代した。
一四六五年六月、伊豆から上杉政憲(足利政知家臣)が、一軍を率いて相模に入った。九月、古河公方足利成氏がこれに対抗して武蔵国太田荘に出陣し、戦線は膠着に陥った。将軍足利義政から上杉への援軍を求められた今川義忠(駿河)・武田信昌(甲斐)は、その様子を窺うばかりで動かなかった。
一四六六年二月、関東管領上杉房顕が五十子陣で亡くなった。あわてた長尾景信の注進で、一〇月、義政と細川勝元・畠山政長が動き、越後守護・上杉房定の子息に白羽の矢が立った。『松陰私語』に曰く。この時、渋る上杉房定は岩松家純の陣所を訪れた。
「もし受け入れてくれなければ、このままここに居座る」
この家純の言葉に、ようやく房定は、次男龍若の擁立を了承した。龍若は元服して、関東管領・上杉顕定を名乗った。この時、十三歳。




