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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【文正の政変】

一四六五年十二月二十九日、伊勢貞親が斯波義敏に味方し、義敏を周防から京に呼び戻した。翌三十日、義敏は義政に対面した。これに反応したのが、斯波義廉であった。義廉は父渋川義鏡(山名宗全の娘婿)が大森家の讒言に失敗するなど、関東計略で義政の不興を買っている。義敏の復権に焦った。この日、義廉は義政に迫り「義廉が引き続き斯波家の領国を支配し、義敏の家臣が勝手な行動をするのを禁じる」奉行人奉書を出させている。

『上意の儀太だ其意を得ず』(大乗院寺社雑事記)

”上意の意図が見えない”

とは、尋尊の評である。

 この年、赤松次郎法師が元服して、赤松政則を称し、加賀半国の守護職を与えられた。


 一四六六年二月十一日、武蔵五十子で政智を待つ上杉房顕が陣没(三十三歳)した。越後守護上杉房定の子顕定が継承した。いよいよ政智は関東に入れなくなった。

 五月、三河守護細川成之が伊勢貞親に、三河で下知に従わない丸山中務入道父子・大場次郎左衛門・簗田左京亮の討伐を依頼した。貞親は、自身の被官となっていた松平信光・戸田宗光に討伐を命じた。松平信光は、徳川家康の先祖。松平家の勃興の祖である。

 七月二十三日、斯波家の家督が義廉から義敏に変更された。斯波義廉は父渋川義鏡が関東で失脚し、自身も奥州探題大崎教兼との取次にしくじったことから退けられた。かつて大崎教兼との取次をしていた義敏の復権が望まれたのである。これでは義兼は立場がない。山名宗全らがこれに激怒し、斯波義廉に味方した。

●山名宗全―斯波義廉(義鏡の子)、一色義直、土岐成頼

こうして、山名宗全を筆頭とする一派が、義政の側近団と対立するようになった。 

 更に三十日、河野通春を支援して細川勝元と対立した大内政弘が赦免された。斯波義敏の復権と大内政弘の赦免は、義政と側近団による将軍派拡大工作の一環であった。だが、これによって細川勝元を筆頭とする一派も義政側近団と対立するようになった。

 かくして義政側近団は、山名宗全・細川勝元と対立する状況に陥った。


 八月、義政は斯波義廉に山名宗全の娘との婚姻を解消するよう命じた。宗全らは領国から軍勢を呼び寄せ、京は緊迫した。こうした中、大和に潜伏し、ずっと復活の機会をうかがっていた畠山義就が、吉野から壺坂寺に出陣した。

 九月五日、義政は「義視に謀反の疑いあり」との伊勢貞親の讒言を信じ、義視を誅殺しようとした。義視は山名宗全邸に逃げ込み、次いで細川勝元邸にかくまわれた。六日、宗全は勝元と結び、義政に讒言した伊勢貞親・蔭凉軒主季瓊真蘂を除くため討手を向けたいと義政に申し出た。これにおそれをなした伊勢貞親・季瓊真蘂らは近江に逃走し、斯波義敏も越前に逃れた。また、赤松政則も山名方の襲撃を避けて姿を隠した。義政側近団の崩壊であった。義政は斯波義廉の家督を再確認するとともに、義視を今出川の邸に帰らせ、貞親の嫡子貞宗に伊勢家を継がせた。十一日、義政は義視に害意がないことを誓った。


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