【御舎弟と若君】
一四六四年五月、相模で大森実頼が隠遁した。堀越公方足利政知と関東探題渋川義鏡の讒で将軍足利義政から謀叛の疑いを受けたためという。大森は相模西部の有力者で、扇谷上杉に属したが、大森氏頼(父)・実頼が京方として活躍する一方、憲頼(兄)が古河公方足利成氏に付いていた。いわれのない嫌疑に、父氏頼が太田資長(のちの道灌)に従って上洛し、義政から赦免を受けた。実頼も、義政から慰留を受け、復帰した。義政は、大森一族の上洛を実現し、改めて当主らに忠誠を誓わせたことになる。この年、室町第(花の御所)の造営工事が完成する中、義政の関東計略はじわじわと進められていた。
十一月十三日、細川勝元に代わって畠山政長(妻が勝元のいとこ)が管領に就任した。
義政には三つ違いの弟がいた。東山の天台宗浄土寺の門主を務め、義尋といった。
二十五日、義政はその弟を浄土寺から細川勝元邸に呼び寄せ。翌日、今出川の三条殿に移らせ、家督を譲り、こののち男子が誕生しても僧侶として家督を変更することはないと誓紙を交わし、還俗させた。十二月二日、従五位下左馬頭に叙任された弟は「足利義視」と名乗った。義政は、細川勝元を義視の後見とし、自らはその監督者となる道を歩み始めたのである。義視には、日野富子の妹が妻として嫁いだ。
翌一四六五年一月八日、比叡山が本願寺と蓮如を「仏敵」とし、本願寺を破壊した。
二月、将軍足利義政は弟義視に御判始を行なわせた。三月四日、義政は東山の花頂山で花見の宴を催した。連歌会が催され、義政自ら発句した。
『サキミチテ花ヨリ外ノ色モナシ』(蔭凉軒日録)
六日洛西の大原野でも花見が催された。この頃までが、義政治世前半の絶頂期となる。
だが、八月、日野富子が懐妊し、着帯の祝が行なわれた。これにより、生まれてくる子と後継者とした弟義視の関係はどうなるのかという問題が生じた。だが、十月、義政はそんなこととは関係なく東山に山荘を造営する計画をはじめた。場所は、この時点では、禅林寺の付近。後に、南禅寺塔頭・恵雲院の場所に変更される。この地に山を築き、水を引き、隠居政治の拠点とする。征夷大将軍を退き、弟義視に表向きの仕事を譲るのだ。
十一月二十日、義政は室町御所で弟義視の元服式を行なった。
その三日後。二十三日、富子が細川常有邸で男子を出産した。義尚である。
『万人歓呼、もっとも天下太平の基なり』
”万人が喜び声を上げ、天下太平の基となると喜んだ”
義政も喜び、産所を再三訪れた。そればかりか、伊勢貞親が乳父となり、その邸で養育されるようになったあとも、夫婦そろって伊勢邸におもむくことが多くなった。
こうした中、乳父・伊勢貞親は御舎弟義視の将軍就任に反対するようになった。貞親は、将軍位は義尚の成長を待ち、義政から義尚に引き継ぐのが望ましいと考えた。つまり、義視は「中継ぎ将軍」としてもいらないと主張したのである。




