【乱の終焉】
一四七三年三月十八日、山名宗全が死去した。五月十一日、細川勝元も急死した。
『神罰なり』(大乗院寺社雑事記)
八月二十八日、細川政元が幕府に出仕し、正式に細川氏家督が認められた。十二月十九日、足利義政は息子の義尚に将軍職を譲った。この頃、東軍は東の越前だけではなく、西の大山崎の天王山を押さえている。糧道を押さえて、東軍はいよいよ優位であり、遠からず西幕府の足利義視も屈服できるという義政の自信の現れであった。
一四七四年四月三日、山名政豊と細川政元の会談が行われ、山名・細川の間で和睦が成立した。十五日、山名政豊の子息である俊豊が将軍足利義尚に拝謁し、東幕府への帰参が正式に認められた。これによって、残る西軍の大内政弘・畠山義就・畠山義統・土岐成頼・一色義直らをいかに停戦させるかが課題となった。五月、一色義直の子である義春も東幕府への帰参を許され、丹後の領有を認められた。但し、東軍の武田国信・細川政国が丹後の引き渡しを拒否している。閏五月、西軍の甲斐勢が越前で東軍の朝倉勢と衝突した。六月、土岐成頼の家臣斎藤妙椿が数千騎を率いて越前に入り、甲斐と朝倉を和睦させた。この斎藤妙椿の活躍によって、西軍はようやく東部戦線を維持している状況となった。足利義政は大酒をのみ、諸大名は狩りを行い。まるで、乱が終わったかのようになった。
一四七五年二月、西軍の甲斐敏光が降伏し、足利義政から遠江守護代に任命された。十一月、甲斐の主君である斯波義廉も尾張に下った。義廉のその後の行動は不明である。こうして、越前は完全に東軍の手中に落ちた。
残るは足利義視と大内政弘であった。一四七六年九月、足利義政は大内政弘に御内書を送り、終戦への協力を求め、受諾を得た。十二月、足利義視が義政に「西軍への参加は伊勢貞親(一四七三年正月死去)に命を狙われたため」と許しを請い、義政はこれを容れた。
以後、義視と縁戚関係(妹が義視の妻)にある日野富子が講和交渉を担った。一四七七年閏五月、大内政弘は足利義視に肩代わりして銭三千疋(三十貫文)を富子に納め、自らも大内と義政の仲介を担ってくれた富子に五千疋を納めている。七月、義視の娘が義政の猶子(簡単な養子)となった。これによって、義視とその息子義材は、将軍足利義尚の潜在的脅威ではあるが、一定の地位を保証される形になったと考えられる。
九月二十一日、西軍で唯一戦意の高かった畠山義就がついに京の陣を引き払った。十月、畠山義就が去った西軍に不安を覚えた足利義視が斎藤妙椿に上洛を要請し、妙椿は美濃・尾張・近江三ヵ国の軍勢三百騎で入京した。だが、すでに大内は終戦を望んでおり、十一月三日、大内政弘は東幕府に降参し、周防・長門・豊前・筑前の守護職と諸国の知行を安堵された。破格の待遇であった。十一日、大内軍は周防への帰途につき、土岐成頼・畠山義統も自陣を焼き払って本国に帰った。この時、足利義視も斎藤妙椿に引き取られ、土岐成頼と共に美濃に下った。西幕府はなし崩し的に解散したのである。応仁の乱は終わった。
西軍の諸大名は、それぞれが守護を務める国に下国した。更にそれだけではなく、東軍の諸大名も次第に京を離れていった。こうして、京に諸大名が集まって、将軍の命を聞くという形は、崩壊していったのである。




