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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【糺河原の勧進猿楽】

一四六三年十一月、日野重子の百ヶ日供養が行われた。これにともなって罪人たちの一斉恩赦が行われ、この年四月に獄山城が陥落して大和天川に潜伏した畠山義就や、斯波家の家督を失い周防の大内教弘を頼る斯波義敏らが赦免された。

 翌一四六四年は、「寛正の大飢饉」がようやく終息する年となった。一月、畠山政長が管領となることが決まり。細川勝元は、その後ろ盾に退くこととなった。

 

 四月、糺河原ただすかわらで、鞍馬寺修造資金の調達の勧進猿楽興行が実施された。糺河原は賀茂川と高野川の合流点に位置する。音阿弥(世阿弥の甥)が公演を行った。観世座による一世一代の興行は三日間にわたり行われた。

●五日:能七番・狂言六番 ●七日:能七番・狂言六番 ●十日:能十二番・狂言十一番

舞台は円形、周りには桟敷が設けられ、将軍足利義政をはじめ諸大名・諸権門が観劇した。

『之を観る者若しくは千人、挙ぐべからざる数也』(蔭凉軒日録)

”観客の数は、あるいは千人にも上り、数えきれぬ規模であった”

舞台の正面中央には『神之桟敷』”かみのさじき”が構築され。左に将軍義政。右に御台所・日野富子が座った。義政に従うのは、御舎弟(義視)、諸権門・管領・畠山・山名・一色・京極・土岐。御台所に従うのは、日野家二条家ら公家衆・諸寺社・六角。極め付きは、富子の真向かいに座る政所執事伊勢貞親とその母・妻である。なるほど、伊勢家が将軍夫妻を支え、本日の勧進も成り立つという図であった。義政には小者六人、御台の富子には五十人もの中間が従う。音阿弥には申し訳ないが、本公演の真の主役は御台所であった。

『上様桟敷』(異本糺河原勧進申楽記)

”御台様(日野富子様)の桟敷”

これから、奥向きのことは、御台所・日野富子が差配するということであった。見物に来た庶民は、将軍義政夫妻の威に驚き、見物棧敷に座る公家・門跡・諸大名のきらびやかな衣装に瞠目した。演者には、一日ごとに銭一万疋がつかわされた。これでは、毎年正月の大内の義政への献金も形無しであった。

 第二回の興行では、義政の帰還が遅れたため、見物人は座席を立つことができなかった。気を利かせた山名宗全が、田楽師永阿弥に、大声で見物人に笠を脱ぐよう命じさせたため。見物人は一斉に笠を脱ぎ、義政が帰るまで一人も席を離れなかったという。


四月十日、甲斐の武田家が、臨川寺前住職の乾受西堂を上洛させた。

『獻千疋』(蔭凉軒日録)

“銭千疋を公方様に献上してきた”

東国大名の動きも変わってきた。十一日、奉行の披露が重なり、季瓊真蘂手持ちの案件は後日にということになった。晩、義政は土岐邸を訪れた。

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