【伊達の奥州1】
奥州の伊達家は南北朝時代を生き抜いた。当主伊達行朝は、北畠顕家が畿内で高師直に討たれた後も生き延び、常陸合戦では、伊佐城で高師冬と戦った。一三四八年、行朝亡きあと息子宗遠が伊達郡を継いだ。一三七一年までに、子の政宗が京から輪王寺殿(石清水八幡宮の善法寺通清の娘、義満生母の姉妹)を妻に迎え、氏宗が生まれている。これは、伊達家が足利将軍家の姻戚となったことを意味する。伊達は、奥州屈指の名家となった。一三七七年、政宗が当主となった。一三八〇年以降、政宗は父宗遠と共に、大崎氏・武石行胤と戦って信夫郡・刈田郡・伊具郡・柴田郡・亘理郡を奪い、一三八五年長井氏を滅ぼして出羽国置賜郡、米沢を獲得した。伊達家興隆の始まりである。
●伊達領国:陸奥国伊達郡・信夫郡・刈田郡・伊具郡・柴田郡・亘理郡、出羽国置賜郡
陸奥(103.9万石)×12.35%+出羽(52.3万石)×18.92%=22.7万石(兵力5,675)
一三九二年、足利義満は力を得た伊達や白河結城を抑えきれぬ奥州管領に業を煮やし、鎌倉府の足利氏満(義満の従兄弟)に奥羽を任せた。あるいは、伊達らとぶつけて、鎌倉公方を弱体化させようとしたのかもしれない。一三九八年に氏満が亡くなり、一三九九年、鎌倉公方・足利満兼(氏満の子)は、奥羽統治のため、篠河・稲村公方(弟の満直・満貞)の派遣を決めた。一四〇〇年、政宗は大崎栓持・芦名満盛らと結び、挙兵した。「伊達政宗の乱」である。満兼は上杉氏憲・白河結城満朝らを派したが、遂に政宗を下せなかった。
『三度征伐、初十六万騎、次十七万騎及十八万、然不得平之』(臥雲日件録抜尤)
“三度征伐を試みた。万の大軍を三度送ったが、平らげられなかった”
逆に、政宗は大崎氏と協力して勢力を拡げ、伊達は奥州で強勢を誇った。
『鹿苑院殿代屬京、于今如此云々』
“義満公の時代、伊達は京直属(京都扶持衆)となった。今に至るまで変わらない”
一四〇五年政宗が五十三歳で亡くなり、一四一二年氏宗も四十二歳で亡くなると、子の持宗が当主となった。伊達に入った血脈は、子々孫々まで引き継がれることとなったのである。一四一三年、持宗が鎌倉府に叛旗を翻し、鎌倉公方・足利持氏が二本松(畠山)修理大夫を遣わしたが、討伐できず、関東が混乱する中、いよいよ伊達は地歩を固めた。
一四六五年四月十五日、相国寺の周鳳を訪ねた、伊達一族の聖壽院坊主曰く。
『昔奥州一國、領三千騎兵者七人、伊達其一也』
“昔、奥州一国には三千騎を率いる将が七人おり、伊達はその一つに過ぎませんでした”
『今伊達、獨有七千騎』
“今や、伊達一人が七千騎(28万石程度の兵力)を率います”
『伊達參伊勢・熊野、因入京、聖壽院与會面、歳五十七矣』
“持宗殿は伊勢・熊野詣でに(一四五〇年?)上洛し、私も会いました。五十七歳でした”
持宗は、一四六二年京で義政に黄金三万疋を献じ、一四六九年七十七歳で亡くなった。




