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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【雪見一献】

一四六三年九月十一日、土一揆が蜂起し、将軍足利義政は万寿寺警固を命じた。

『被命于山名相模守幷土岐大膳大夫方』(蔭凉軒日録)

“山名相模守と土岐大膳大夫に警固が命じられた”

 十七日、幕府と親しい禅寺をはじめとする各所で、警固が進められ、鹿苑寺でも。

『當寺當院問丸致警固。仍無災無難也』

“問丸が警固され。災いなく無事である”

問丸(港湾輸送組織)の保護が行われたのである。

 十八日、どうした心境か、義政は父義教の肖像画が見たいと言い出した。

『普廣院殿御影悉自諸寺院被召被御覧』

“普広院(義教様)の肖像、諸寺院にあることごとく御覧になると召し出された”

諸寺院が保管する肖像は、数十幅。季瓊真蘂が持つ尊容をもとに、複写されていた。

『自大上樣尤被爲相似其身也』

“(この絵が、)大上様(義政母・日野重子)が、もっとも似ているとおっしゃっていた”

試練の時が来たらしい。京を護れるのは、征夷大将軍である己しかいない。

 花の御所の再建工事も、母日野重子の高倉御所造営工事も、将軍でなくとも行える。越前から大量の飢民が訪れ、おととし八万二千人の餓死者(京の人口は二十万)が出た時点で、腹を括るべきであった。飢民のための工事と知りながら、奉行人らは動かぬ。「(わしの企画した)工事のせいかな」と、惚けたら、流された。尻を叩かねばならぬ。厳粛だった父義教のように。


 これもおととし、管領屋敷の前にわざわざ書かれた「碁盤」の落書き(斯波・畠山がかけた鼎)に最も肝を冷やしたのは義政であった。幕府を支えるのは、管領と将軍しかいない。この事実は、喜ばしいものではなかった。

 関東古河公方足利成氏と対局するだけが将軍の仕事か。父義教と同じ「碁盤」に留まるつもりか。盤外から、敵か味方かもわからぬ者達に、”駒を落とされ続ける”ぞ。まして、相手は困窮しているだけの民なのである。

―黒と白の、碁盤の世界でいつまでも遊ぶな―

遊戯ではないのだ。今度は、三人打ち(将軍・古河公方・管領)か。四人打ちか(寺社勢力)。見えている人達がいる。最早、伊勢貞時(数字)では割り切れぬ局面になった

民は御所に心を寄せなくなった。いつまでも、管領とやりあうのは、もうやめたらどうだ。

恥も極まった義政は、去年から、母日野重子の御所造営に工事を変えた。孝行のためです。それが飢饉の真っ最中の柳営(室町幕府)の主の仕事か。都には、一気に義政が現実逃避をしているという噂が流れた。そも、畿内の管領細川が関東をどう治める。上杉がいるではないか。じゃあ関東遠征は何だ。内乱だよ。御所様と細川と上杉の勢力争いだ。

 父義教と同じ轍を踏もうとしている。画の中の父義教は、ふくよかな祖父義満や伯父義持と異なり、細面で鋭い目をしていた。将軍になる前は、比叡山座主(指導者)であったのに、焦って見境を失ったのが父であった。二十日、義政は季瓊真蘂には、今日は虫気で来れぬと伝えた上で、父の肖像を一日眺めた後、返した。

―数十幅あった像も。二十二年で、出てくるのは等持寺・香厳院・鹿苑寺だけとなった―

坊主どもは度し難い。京の東の比叡山には常に三千余の僧兵らがいる。動けば、御所などひとたまりもない。僧兵は、赤松家中よりも多人数であるという当たり前のことを義政は思い出した。ワシでは、こやつらの主は、務まらぬかもしれぬ。それでも、将軍には将軍の役割がある。


甘やかしてばかりはおれぬ。二十二日、義政は季瓊真蘂に結城兵庫をよこして「琤玉額の文字の彩色が良くない」と伝え、改鐫(彫りなおせ)と命じた。二十三日、伊勢七郎衛門尉を送り、「三日で」と通告した。さすがにひど過ぎる、義政は果断を決めた。

二十四日、秋深まるが寒さはない。義政は諸大名を連れ、蔭凉軒に姿を見せた。

『御成敗而土一揆退散』

“土一揆は成敗し、退散させたよ”

季瓊真蘂にさりげなくそう言った義政は、打って変わり、西芳寺の楓の紅葉の話に興じた。

―君たちダメ坊主も成敗したいんだが。尻を叩くだけにしたよ―

翌二十五日、季瓊真蘂らは慌てて額の字を削り、義政に見せた。手直しが始まったことを確認した義政は、改めて彩色を命じ、畫師土蔵(額職人)への依頼を命じた。二十七日、

『元甫西堂自關東上洛。仍御點心後。奉懸于御目也。獻以御馬一疋葦毛』

“元甫西堂が関東から上洛した。お祈り後、公方様のお目に掛かり、馬一頭を献じた”

関東もようやく靡いてきた。義政は同席する管領細川勝元とそのことを喜んだ。やはり、細川とは上手くせねばならぬ。


 十月三日、義政は、鹿苑寺に塔婆を造営しようと言い出した。その仰せに、季瓊真蘂は喜び、義政に奉礼を述べた。季瓊真蘂の琤玉額への誠実な対応を見た義政は、礼を決めたのである。将軍の仕事をするのが、将軍であった。先日はすまん、御坊は間違っていない。

『材木杣船頭。於山名兵部少輔爲被管』

“材木を運ぶ船頭は、山名兵部少輔が監督することになった”

早速、山名の木引人夫、諸国の海上・河上関、渡御過書(通行証)のことが話し合われた。室町時代、諸国の海・河川は関で管理され、資材の運搬には通行許可証が必要だったことが窺える。義政は、これらに頷き。早速、飯尾左衛門大夫に手配を命じた。

 二十一日、土一揆が再び蜂起した。二十三日、京極・武田・赤松次郎法師に警固が命じられた。寺家の東門警固も命じられ、治部大輔・左衛門亮らに武田大膳大夫らが加わる。土一揆が路を塞ぎ、たびたび東門で衝突が起きた。しばし、なにやら考えた様子であった義政は、二十七日、疲弊する諸勢に、赤松次郎法師を東門に回した。これが功を奏した。

『追出中賀茂林間土一揆。以赤松次郎法師忠節』

“赤松次郎法師勢の活躍により、中賀茂の土一揆を追い出すことに成功した”

三十日、土一揆の退散が報じられ、赤松次郎法師は義政から御感を受けた。

『土一揆大將蓮田於于淀被誅』

“(十一月一日)土一揆大将・蓮田が淀で処刑された”

その他、七人が処刑された。管領細川勝元の調べによると、この土一揆は丹波須智村で発生したもので。どうも、洛中の賛同を得られるたぐいのものではなかったようだ。季瓊真蘂は、しきりに、皆が土一揆の退散を喜んでいる様子を記している。

 京洛の世評は、公方様が上手くやり始めたと変わっていった四日、京に平穏が戻るなか、雪が降り。義政は報告を受ける傍ら、雪見の一献を傾けた。


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