【義政と才人達】
一四六一年冬から翌一四六二年夏にかけ、越前国坂井郡の興福寺領河口荘(九頭竜川下流地域・総田数約六百町)・坪江荘(約六十町)では、一万の流亡者が出た。いよいよ、管領細川勝元の朝倉孝景ら越前兵を動員し、関東を平定するという戦略は修正を余儀なくされた。
その最中の一四六一年、蓮如(四十七歳)が京で親鸞の二百回忌を営んだ。飢饉が広まる中、浄土真宗に帰依する民は急増し、本願寺の興隆が始まりつつあった。他力である。
飢饉の中、民は他力による救済を求めていた。
寛正年間(一四六一~一四六六年)、京に在住する有力武士達は、嘉樹・珍石を配した庭園をもち、数寄をこらした邸宅を造る気運が高まった。寛正の初め、大極蔵主は管領細川勝元や所司代多賀豊後守高忠の邸を訪れ、壁に掛けられた唐絵・調度の整った室内・魚鳥の遊ぶ園池の様子に目を見張っている(碧山日録)。このような動きは、応仁の乱後、地方の国人層武士にも波及する。将軍義政は、こうした邸宅・庭園造りの流行を生みだす位置にあった。
義政は一四六二年初めから、母日野重子の住まう高倉御所の修造を本格化させた。殿舎の障子には小栗宗湛(おぐりそうたん、常陸小栗氏、もとは小栗助重、代々の反鎌倉公方派で一四五五年古河公方足利成氏の攻撃で本領小栗御厨荘を失い出家して相国寺に、水墨画の才を開花させこの翌年に将軍家御用絵師となる、「芦雁図」など力強い絵の雪舟と違って柔らかな作風でそのへんが義政に好まれたのだろうか。一四六二年、蔭凉軒主季瓊真蘂の私寮・松泉軒障子の瀟湘八景図を見た義政に抜擢される)が絵を描き、何と一間の価に二万貫(二~四億円)がかけられた。泉水の造営に関して、義政は善阿弥を参画させるだけでなく、自ら西芳寺に夢窓疎石の設計思想を盗みに行っている。高倉御所庭園の造営は、全く義政の手に依るものであり、設計から施行にいたるまで義政が指揮した。
六月、庭園は完成し、水が引かれた。だが、見物を望む側近の禅僧達に対して義政は、泉水に配置する亭が完成するまでは、と留め。彼らが許されたのは七月になってからであった(蔭凉軒日録)。
一つ気になるのが、義政がこれら一連の御所修造から禅僧を遠ざけている点である。庭師善阿弥(河原者)・画師小栗宗湛(元武士)、いずれも禅僧ではない。義政は、五山から建築・芸術を取り上げることを意図していたのだろうか。他に同朋衆の能阿弥(元越前朝倉家臣、父義教の代から仕える)は水墨画・阿弥派の開祖といわれ、茶道において小笠原流(武家作法)と親和性の高い今日に伝えられる茶の点て方を考案している。更に、千阿弥(かの千利休の祖父)も同朋衆を務める。後に、戦国武将を魅了した天下三肩衝「初花・新田・楢柴」のうち、初花・楢柴が義政のものだったのも、これら才人達が背景にある。
一四六二年、モスクワ大公国でイヴァン三世が即位した。一四七二年ビザンツ最後の皇帝の姪と結婚。その継承者としてツァーリを自称。一四八〇年キプチャク・ハン国から独立した。




