【幕府の鼎・細川勝元】
一四六一年秋、将軍足利義政は西芳寺を訪れた。境内の紅葉は盛んなのに、洛中の人家が衰微している。土木の課役をかけすぎたためか、と義政は側近に漏らした(蔭凉軒日録)。義政も、餓死者八万二千人という数字を看過できなくなった。
『骸骨巷ニ満テ道行人アワレヲモヨヲサズト云フコトナシ』(長禄寛正記)
”骸骨ちまたちに満ち、道行く人は、憐れみ催さずにはおれなかった”
花御所の再建工事はすすんでいた。会所・泉殿・泉水が出来上がり、そこに明石・銘木を運び込む段階である。だが、大量資材の運搬だけで、数万以上の流民達の仕事を賄うことはことはできなかった。飢饉と疫病の規模は、義政らの想定をはるかに上回りつつあった。
見かねた時宗・願阿弥という僧が、六角永法堂の南に小屋を建て、粥の施行をしている。餓える者と創る者と施す者。それらが京洛に集まり続ける以上、義政は御所造営工事を止めることができなくなった。すなわち、関東遠征と飢饉対策を両立させていた義政は、飢策への集中を余儀なくされたのである。これでは、関東遠征に反対して大内の下に逃げた斯波義敏が戻り勢、畿内が割れるかもしれない。義政は政所執事伊勢貞親の賛同を得て、斯波家に追撃を掛けた。八月二日、斯波家家老・甲斐常治が松王丸(斯波義敏の子)を廃し、斯波義廉を当主とした。義廉は足利一門の渋川義鏡の子である。斯波家本家は、絶えたも同然になった。
閏九月十六日頃、管領・細川勝元邸の門に落書きが出現した。
『盖画鉄輪、去二ヶ足、存一足、置于碁盤上』
“碁盤が描かれ、その上に、三つある足のうち、二つが欠けた鉄輪が描かれている”
『其意、武衞・畠山・細川、此三家、謂之三軄、猶如三足鉄輪』
“鉄輪の三足は斯波・畠山・細川の「三管領家」を意味する”
『今武衞・畠山皆亡、此次細川御番也』
―斯波・畠山の家は、皆亡んでしまった。細川殿(気を付けぬと)次はそなたの番だ―
『碁盤』と『(細川家の)番』。いまや幕府を支える鼎は細川であった。飢饉と流民が止まらぬ以上、今、管領は関東問題に傾倒できなくなったのである。今細川が崩れれば、将軍家は裸となる。管領殿用心しろ。周鳳も、在俗時は、三代義満に討たれた山名被官の一族だった。周鳳らなりの、細川勝元への叱咤だったのだろうか。十月、「寛正の大飢饉」はますます悪化した。
『諸国の者ども乞食になり、京都へ上り集まる』(経覚私要鈔)
“諸国の者たちが、乞食となり、京都へ上り集まってきている”
『洛中充満。幾千万という事を知らず』
“洛中には飢民が充満し、幾千万と数知れなくなった”
落書きに助けられたか。このまま何も知らずに関東の足利成氏らを攻め続けていれば、京が崩壊するところであった。なるほど、耳の早い誰かが、一月前に伝えてくれていたか。
こうして室町幕府を護る細川家は、幕府最後の鼎となっていった。




