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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【相良の歩4 ―大国を抑え込め―】

 一四六二年、肥後南部で十代・相良長続が威名を高めるなか、中央が動いた。将軍足利義政が豊後守護・大友親繁に、筑後半国守護を与えたのである。

―肥後の菊池家を弱体化させる好機が訪れた―

元来、筑後は菊池の守護国である。筑後・肥後の菊池派国人は、大友の進出に反発した。

 一四六四年、相良領の北隣・八代郡で名和長利が亡くなった。一子・幸松丸は十三歳。若年の当主に内乱が起こり。幸松丸は、老臣内川喜定に奉じられ、人吉城に亡命した。長続は幸松丸を受け入れ、川辺村永江に館を設け、庇護した。

 一四六五年、大友家から志賀親家が、筑後に出陣した。肥後守護・菊池為邦は、弟為安を迎撃に出した。両軍は高良山で衝突した。大友軍はこの戦いに勝利し、菊池為安・黒木之実・三池親在を討ち取った。この報に、義政は菊池から残る筑後半国を取り上げ、大友親繁を筑後一国の守護とした。菊池は、筑後の勢力を失い、肥後に封じられた。

 長続は、宇土郡の宇土忠豊(為邦の弟為光が養子)と連絡を取り合い、一四六六年三月九日、幸松丸を八代城に帰城させた。幸松丸は顕忠と名乗り、伯耆守に任じられた。相良と名和に築かれた友誼。顕忠は、八代郡高田郷の三百五十町を相良に譲り、恩に報いた。


 この動きは、肥後守護・菊池為邦からみると、南部の相良・名和・宇土が同盟を築く構えに見えた。為邦は、相良領・葦北郡を攻撃し、水俣の兵がこれに応じて反乱を起こした。いよいよ、相良家は北の菊池家と対決を迫られたのである。

●菊池家(肥後守護/玉名・山鹿・山本・飽田・菊池・詫摩・益城・天草/肥後66%、北部・中部を支配):26万石・兵6,500

●相良家(葦北・球磨/肥後6.8%):2万6千石・兵650

●名和家(八代/肥後7.4%・相良領国の北隣):2万9千石・兵725

菊池は強大である。だが、足利将軍・大友と対立し、筑後を失った。かつて、菊池は肥後・筑後を領し、その国力は相良家の“10倍を超えた”。だが、今や相良は名和と連合し、その差を“4.7倍”に縮めた。加えて、菊池は、大友の南下に備えなければならない。

●大友親繁(豊後26万石・兵6500、筑後21万石・兵5250):47万石・兵11,750

ここから、当時の大友家が肥後・菊池領に出兵可能な兵力を推計しておこう。

●遠国の豊後6500×30%+隣国の筑後5250×55%=1950+2887=4,837

菊池は防衛に4,800以上を置く必要がある。相良討伐の兵は「6,500-4,800=1,700」以下。

●相良・名和連合軍:650+725=1,375

―防御に徹すれば、凌げぬ相手ではなくなった―


 長続は、菊池との対決を決意し。相良家の外交方針を転換した。島津忠政と連絡を取り、領有を認められていた大隅国菱刈郡の牛屎院を島津に返還したのである。これで、南は安泰。牛山城の守兵を八代郡平山城に入れることができる。長続は、村山某を城主とした。

相良家はぜひ取り上げたかった大名の一つです。

理由は単純。「無事生き延びて、現代を迎えた大名だから」

歴史上、様々な英雄豪傑が現れますが、私が好きのなのは、「生き残る英雄」「生き残る大名」です。

真田幸村(信繁)が好きなのは、お兄ちゃんの信之が真田家を存続させたからであり、伊達政宗が好きなのも、同様。

 あるいは、「滅びるにしても、”何かを残す”大名」も好きです。織田信長は「本能寺の変」で倒れたが、後代に功績が残ったので好き、とか。武田家も「天目山の戦い」で当主勝頼は倒れたが、一族や遺臣団が江戸幕府設立に貢献とか。

そういう話です。


それは置き。さて、「どの大名が、どのくらい強いのか」を考えたいと思います。本作、「人の難 衆の狂」では、基本的に次の形で考えています。

●「経済力」>「政略力(外交力)」>「軍事力」>「武将の能力」

●「経済力」=米の生産力(当時のGDPの根幹)+交易(日本国内の海運、海外との交易)

やたら、推計推計と言ってるのも、「経済力」を重視しているからです。


①「経済力」について

その理由も至極単純。

例えば、「1億円⇒鉄砲を100買える」としたら、「GDP10億のD国」と「GDP30億のJ国」の力を比べた時、J国の方が”たくさんの鉄砲を買うことが可能だから”です。

鉄砲1000個よりも、3000個の方が強い。それは単純にして、絶対の真実です。


②「政略力(外交力)」

ここからがやや応用編。「鉄砲を2500持つE国」と「鉄砲3000のJ国」が競う時。

”E国が踏ん張るには、どうするか?”

この時、政略(外交)の出番となります。

・E国は「鉄砲1000個のD国と同盟する」⇒D・E連合「鉄砲3500個の連合」の誕生

・あるいは、「J国の鉄砲1000個を”使えないようにする”(鉄砲を捨てさせるとか)」⇒E国の勝ち

このあたりが、政略(外交)となります。

(だから、多数の同盟者を得る”多国主義”が、どう考えても賢い。伊達政宗の曽祖父の伊達稙宗の政略ですね)


ここまで見ると、「軍事力」というのは、良くも悪くも、「経済」「政略(外交)」に依存することが分かります。


さらに、ものすごく応用。

政略(外交)で、「J国は、20年間の同盟をE国と結ぶ(何なら、永久に友好国となる)」

⇒「鉄砲を”用意すらしなくてよくなる”」わけです。

これは極端すぎる例かもしれませんが。いずれにしろ、J国は賢いですね。


本段の相良家は、それに近い発想をしています。

「兵の不足を、知恵で補っている」「10倍近い経済力の菊池家を、政略で抑え込んでいる」のです。

ゲーム理論の有名な例でいえば「兵器武装のゲームですね」。武装しないで平和が「100」、武装しなくて滅ぼされるが「0」とすると。

勝負するA国・B国は、ほどほどに相手を見ながら武装の「50」を選ぶ。

で、政略(外交)の役割が何かといえば。武装がなるべく少なめの「70」「80」に”誘導して見せる”。

これが、武将や大将の”手腕”であります(それができる大将は、”名将”)。

戦国時代でいえば、「三国同盟」とか「豊臣秀吉の惣無事令」(現代で言えば「条約」ですね)。

勿論、例えば、秀吉にそれに近いことができたのは、「そうすることの利益を提示できたから」です。

佐渡金山・石見銀山の金銀を全国の大名にまいて見せたり。

大阪平野に大経済圏を作って、平和に賛同してくれた大名達(家来になった大名達)をその商業活動に参加させたり、とか。結局、武装をするのは「何らかの不安」があるからであり。であるなら、「先立つものはお金だから、まずはみんなの懐を温め、安心を与えた」のです。

ここでも、「経済力」。

ナンだ、大事なのは「経済」ではないかとという話です。


さてさて、こんな感じで、ここからの”いろんな展開”を眺めるのが、良いのではないかと思います。

相良家以外にも、いろいろな大名が登場しそうです。


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