↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/148

【相良の歩3 ―武よりも智―】

 一四四八年、上相良家・下相良家を纏めた、十代・相良長続は、領内の統一を進めた。一四四九年八月、上相良残党の桑原隠岐守が城戸尾で叛いた。桑原こそ、下相良宗家を傾けた張本人である。長続は、相良頼連・犬童重国・犬童重久に、これを討たせた。西門外で、族党の多くが討たれるのを目の当たりにした隠岐守は、永野で自刃した。

周囲が安全なうちに。急がねば。一四五一年、長続は、南隣の大隅・牛屎院に出陣した。その際、漆田・赤池地頭の斉木但馬の謀叛を察知し、三月自刃に追い込んでいる。一四五五年、北では肥後守護・菊池為邦(二十五歳)が、伊作島津勝久の援助で国人一揆を乗り切った。菊池は、一四五六年と一四五七年の二度、李氏朝鮮に交易船を送り、国力を強めた(【海難事故発生】)。一四五七年、長続は橋本某の謀叛を討ち、ようやく領国を平らげた。


ここで、応仁の乱頃の、相良家領の外に目を向けてみよう。

●肥後39万5千石:慶長郷帳石高(1604~1610)をもとに生産高・兵力を推計

・菊池家(肥後守護/玉名・山鹿・山本・飽田・菊池・詫摩・益城・天草/肥後66%、北武・中部を支配+筑後の一部):肥後26万石・兵6千500+筑後の一部

・阿蘇家(阿蘇/肥後9.4%、北東部を支配、大友家が東隣):3万7千石・兵925

・合志家(合志/肥後6.0%、周囲を菊池領に囲まれて従属):2万3千石・兵575

・宇土家(宇土/肥後4.4%・中部の西に割拠):1万7千石・兵425

・名和家(八代/肥後7.4%・相良領国の北隣):2万9千石・兵725

・相良家(葦北・球磨/肥後6.8%):2万6千石・兵650

●大友家(東の豊後):26万1千石・兵6千500

●島津家(南の薩摩・大隅・日向):53万5千石・兵1万3千375

島津領国は、現在内紛である(諸家分立、日向・伊東家らと抗争)。だが、もし纏まれば。

―相良家の20.5倍の国力を持つ島津の北上が始まる―

それ以前に、肥後守護・菊池の国力は、相良の10倍以上である。今のところ、菊池領と相良領の間には、宇土家と名和家が存在する。だが、名和は南北朝以来、菊池の盟友。宇土も、菊池持朝の子為光(為邦の弟)を養子とした。相良では、名和・宇土単独と争うのも難しい。武よりも智。軍略よりも政略。知恵なき運営で、相良は立ち行かなかった。


 南が固まる前に。長続は、大隅国牛屎郡に兵を進めた。菱刈家と共に牛屎家を圧迫する。一四五八年、一族内紛に苦しむ島津忠政は、相良に牛屎院領有を認めた。長続は、牛山城に叔父永留長連、のちに犬童を置いた。一四六〇年十月、菊池為邦から所領安堵を得た。

『肥後國葦北郡事、守先例之旨、可有領知之状如件』(菊池為邦安堵状)

“肥後国葦北郡は、これまで通り、領地として治めて良いぞ”

南方を固めたうえで交渉し、菊池を認めさせた。長続は、嫡子為続を伴い、隈府城に赴いた。菊池為邦は、相良父子の訪問を喜び、為続のため、館で元服の儀を取り行なった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。