【相良の歩2 ―雀ヶ森合戦―】
上相良軍による人吉城陥落と、下相良の若当主・堯頼の大隅国亡命。この報に、山田城主・永留長続は怒った。多良木家の謀叛、不義の至り。桑原の行い、言語道断。長続は、ただちに兵を上げ、人吉で油断する上相良軍を急襲した。慢心していた上相良軍は散々に打ち負け、頼観は僅かの手勢を引き連れ、多良木へ逃げ帰った。
長続は、大隅国菱刈郡山野に難を逃れた宗主堯頼に使者を送り、人吉への帰城を促した。だが、堯頼は、己は当主の器でないと応じず。相良一門のためと訴える長続との間に、問答が繰り返された。一四四八年三月二十八日、堯頼が“急死”した。何と、日頃可愛がる愛牛に角を突き立てられたという。享年十六歳。その齢で、牛が可愛いというのも変である。側近か、あるいは長続に消されたのだろうか。永国寺の大蟲和尚は、堯頼の菱刈亡命に御供した。堯頼死後、肥後国球磨郡に戻り、草庵に蟄居したが。長続の永国寺再興の折り、小慎山の麓に一院を造って住まった。一乗寺という。生かされたばかりでなく引き立てられたということは、寝首を掻いたのは、長続ではなく側近らだったのだろうか。
結果、十一代当主・相良長続が誕生した。長続は相良の有力一族。永享年中(一四二九~一四四一年)に、従五位下・左近将監に任ぜられていた。下相良家中に推されて当主となった長続ではあるが、心中従わぬ者多く、その実力を示すことが求められた。
八月、上相良頼観が再度、下相良に叛旗を翻した。頼観は鍋城に籠り、弟頼仙が古多良木砦に、家臣源島某が久米砦に拠った。長続は、計を廻らせた。
『兵を分つて三と爲し、一は古多良木に向ひ、一は久米雀森の堀川に伏せ、一は久米の寨
を燒くとせんか』(球磨郡誌)
“兵を三分する。二つは陽動だ。一軍は、古多良木砦のおさえに向かい。もう一軍は、久米砦に火攻めを仕掛ける。残る一軍は、久米雀森の堀川に伏せよ”
頼観は思慮が浅い。久米砦の火に、城から出てくるだろう。
『此の時伏を發して夾撃せば、一擧にして之を殲滅すべし』
そこを、堀川の伏兵で叩く。挟撃し、一挙に殲滅する。
四日夜、長続は叔父永留長連に兵七百を授けた(球磨郡・葦北郡で推計兵力650だからそんなにいる筈がないので、「公称七百」)。五日、不意に久米砦を攻めて火を放ち、慌てる源島某を斬った。立ち上がる火の手に、頼観・頼仙兄弟は驚いた。頼観は兵百五十で鍋城を出撃し、弟頼仙も古多良木砦から出た。上相良兄弟が堀川を渡る。その時、伏兵が一挙に起こった。不意を突かれた兄弟は、戦場の露と化した。
この「雀ヶ森合戦」により、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村が長続の治下となった。八代二百二十年続いた上相良が滅び、相良家が下相良によって統一されたのである。
頼観の子、鬼太郎(十九歳)は、周防に奔った。一五〇六年、大内義興家中で相良正任と名乗り、相良為続の新撰莵玖集に関し、往復文書を発している。時に七十七歳。




