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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【相良の歩1 ―ある小国の外交史のはじまりはじまり―】

 肥後国球磨郡は、相良家の領である。一四一七年四月四日、第九代・下相良前続が当主となった。従五位下・近江守。宮内大輔を称した。前続は、島津豊久の娘(島津忠国の妹)を娶り、夫人とした。その際、島津家から、山門郷三百五十町を引出物として得た。

 ある年、島津忠国は伊東祐堯の領地を攻め、山東城・河南城を落した。島津軍は、更に都於郡に進出した。伊東祐堯は、前続に救助を請うた。前続は、軽騎で日向に駆け、自ら島津忠国を説いた。島津は、兵を解き、伊東に領地を還した。

 前続治世で、球磨郡は平和を謳歌し、神社仏閣の草創・再興が進んだ。永享年中(一四二九~一四四一年)、鎮西探題左京大夫・尾張氏継が肥後を訪れた。前続は、島津忠国と共に、領地・葦北郡二見でこれを迎えた。席では、犬追物が演じられ、氏継の観覧に供した。

●球磨郡:1万5千石・兵375、葦北郡:1万1千石・兵275⇒2万6千石・兵650

一四三三年、子の堯頼が生まれ。一四四三年、前続は世を去った。


 前続は永国寺に葬られた。蓬莱山・永国寺は、越前永平寺の末寺。一四一〇年、下相良家の働き掛けで、実底和尚が開山した。和尚は西氏。京の天龍寺で修業した。

修業時代、和尚の母は、京の和尚に和歌を送った。

『石だにも 磨けば玉と なるものを 心の中に 光あらせよ』(球磨郡誌)

“石でさえ、磨けば宝石ともなります。心の中に、光を持ちなさい”

『生れたる 姿は同じ 夫れながら 心の人と なるは稀なり』

“生まれた姿は同じであっても。「心の人」となるのは、稀です”

若き日の和尚は勉学に励み、遂に一山の主となった。永国寺は、代々相良の庇護を受けた。


 一四四三年、十代・相良堯頼が家督を継いで人吉城主となった。僅か十一歳であった。当時、球磨郡の相良一族は、上相良家と下相良家に分裂していた。一四四八年二月下旬、東の多良木城主・上相良頼観と弟頼仙(多良木・久米・湯前・湯山・岩野を支配)が、外越の地頭・桑原隠岐守に唆され、人吉城を襲撃した。蓮華寺・東明寺等の僧徒、安養院・本蓮坊の時宗の山伏等が加勢し、上相良軍は歩行武者五百・雑兵七百を称した。夜半、上相良軍は人吉に押し寄せた。町在家に火が懸けられ、鬨の声が大手に迫る。二代の平和に慣れた、下相良家中は狼狽し、若年の堯頼は近習譜代に護られ、大隅菱刈を指して逃れた。

 人吉城に残されたのは、外様と足軽だけとなった。その中に、元薩摩の侍・八尾某の倅帯刀という者がいた。帯刀は逃げる味方に向かって言った。

『各々重恩譜代の輩として主君に忠義を忘れたること人非畜生と言ふ可く』

“おのおの、代々の家臣でありながら、主君への忠義を忘れるなど人にあらず。畜生なり”

『一旦の主君たりと雖も此度忠貞を願し一命を捨てて敵と一戦をとげ、末代に名を残さ』

“日の浅き主君といえど。忠義をかけ、一命を捨てて一戦とげ、名を末代に残さん”

戻せ。帯刀に萬江・高畠・深水ら数名が応じる。帯刀の勇姿は、長く肥後国に伝わった。

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