【義政対畠山義就】
一四六〇年九月二十七日、飯尾之種・飯尾貞元から興福寺大乗院への奉書より。
『畠山次郎政長代申河内國守護代事、近日可令入國云々』(経覚私要鈔)
“畠山政長の家臣の新守護代は、近日河内に入る”
無論、飯尾らの上には将軍足利義政がいる。これは、実質的に、義政の指示であった。衆人は分かっていない。京で人に見せる姿は、「御所の庭園工事を眺めるだけの将軍」であっても、義政は連年古河公方・足利成氏との戦いを指揮する、歴戦の将軍なのである。
―戦の仕方を見せてやろう―
義政が、大和興福寺に発した指示は、非常に風変わりなものであった。
『右衞門佐被官人往反通路事、不日差塞者、堅可致驚固之由、嚴密可有御下知』
“よいな、右衛門佐らに対しては、「通路を塞げ」。日を置くな。このこと厳密に命じる”
義政は、「河内国の封鎖」を興福寺に命じたのである。
閏九月三日、将軍足利義政は、管領細川勝元らに畠山義就の討伐を命じた。六日曇り。この数日、本願寺の兼壽(蓮如のこと)と書状の遣り取りをし、諸方から松茸・柿の贈答を受ける大和の経覚のもとに、畠山義就討伐の陣立てが届いた。
『管領勢 和泉兩□□ □磨勢 淡路勢 伊勢國司 □ □野 伊賀守護 同國人
大和衆 南都 紀州・河内國人・被官中 玉置 湯川 山本 攝州・紀伊・河内寺社
鵜飼 望月 讃州・阿波勢 兩佐々木軍勢用意事 土岐同前』
“管領細川勝元・持久・常有ら細川一門、播磨・淡路勢、北畠具教・関・長野、仁木・
伊賀国人、大和国人・興福寺、紀伊・河内国人・湯川・山本、摂津・紀伊・河内の寺社、
鵜飼・望月、讃岐・阿波勢、京極持清・六角高頼、土岐持益”
畿内近国はおろか、四国勢・美濃勢までが、動員されていた。
非常に意地が悪いことに、京で御所工事に駆り出される山名宗全には、何も命じられていない。日頃、何かと鼻息の強い宗全であるが。本当に将軍を怒らせたら、どうなるか。おとなしく御所の工事をしながら、側で見ていろ、ということだろうか。
七日、恐怖に駆られた義就は、先手を打ったつもりで、摂津に家臣を送り込んだ。
『堺北庄者、細川知行□□、譽田遠州ヲ居置、南庄者相國寺領也、是ニハ甲斐庄ヲ入置』
“堺の北(摂津国住吉郡)の細川領には誉田遠州を送り、南(和泉国大鳥郡)の相国寺領には、甲斐庄某を入れ置いた”
わざわざ、なけなしの軍を南に分散してくれたか。外は朝から雨が続き、東風が止まない。
『宇治橋ニ六角被居置』
“六角高頼に宇治橋を固めさせた”
―これで、万が一にも、右衞門佐(義就)軍が入京できる可能性はなくなった―
京極持清とは日頃懇意にし。六角高頼はこんな時に活躍させる。将軍も楽ではない。
九日、季節にあわぬ霜が降りた。よく冷えている。
『畠山弥次郎政長自當國爲○河内、今日付南都』
“畠山政長が大和から河内に入るため、今日、南都に着いた”
筒井順永がこれを迎える。
『□見物乘女輿』
“わし(経覚)も見物のため、女輿の中から、その様子を見せてもらった”
般若寺に入った政長軍は、八十余騎。旅装は、小袴に網笠。馬回り二三十名。先方は筒井。案内役は、「春行」という寺僧。なんだ、たったの百十人に過ぎぬではないか。
『其躰比興也』
“面白いものだな”
あまりの小勢に、経覚は思わず笑ってしまった。こんな人数で、義就を討てる筈がない。眼前を政長勢が通り過ぎ、退屈した経覚は大和古市に戻って行った。
十日、曇り。政長から成身院光宣(大和筒井派の指導者の僧、経覚と戦ったこともあるが、既に和解済み)に、料足(軍費)と兵糧が命じられた。経覚は、小勢で来たあげく、飢饉に苦しむ大和の民に税を課す、政長と光宣らを『無思慮』と難じた。
十一日、曇り。古市の南西の大和宇智郡(義就のいる河内との境にある郡)・牧野城で畠山政長派と畠山義就派の衝突は始まった。政長も攻撃に加わるかと思われたが、無勢により動かないようだという情報が廻った。
『立野邊ニ可取陣旨』
“(はるか北の)平群郡立野らへんに陣取るようだ”
何を考えている。金剛山付近の南の牧野城は寄騎に任せ。自らは、暗がり峠を越え、河内に雪崩れ込むつもりか。無謀である。経覚は、幕府と政長の意図が読めなくなった。
僧である経覚に見える戦場と。一介の武将に過ぎぬ畠山義就・畠山政長にみえる光景。そして、全軍を掌握する足利義政にしか見えぬ絵。それらは、残酷なまでに異なる。
十二日、一日悩み抜いた経覚は、明日京に上ることを決意した。
『先吉阿上了、横行四人召賜了』
“吉阿を先に行かせ、後からわしと上る四人を呼び寄せた”
しぶとい吉阿なら大丈夫だろう。十三日、経覚は上洛した。
十五日、曇り。九条邸に滞在する経覚のもとに、戦況が届いた。
『攝津國○右衞門佐半令押領之□、細川一族・内者以下訪禦多以罷下云々』
“摂津の半分は畠山右衛門佐(義就)に押さえられ、細川一門が防戦に向かうという”
だが、長年、摂津は細川の領国であり、畠山が勢力を維持できるような地ではない。この時点で、畠山義就は、本軍の河内・南の和泉・北の摂津に主兵力を三分した形となる。その目的は、“兵糧の確保”であろう。義就は、軍勢維持のため、周辺から食料を奪って廻る他なかったのである。これが、「軍勢の三分割」という下策に繋がった。
十六日、曇り。政長は、平群郡・龍田城に陣を移した。これに成身院光宣も同道する。
『騎馬二三十騎・人三百人計』
“騎馬二三十騎・雑兵三百人である”
それにしても少ない。経覚は、義就に挑む政長らを「哀れだ」とさえ思った。
だが、これは経覚の視点に過ぎない。同じ頃、義政は関東の使者に応対していた。
『加之關東事鎌倉武將奧ニ引籠、其勢猛氣之間』
“関東の足利成氏が利根川の向こうに引き籠り、猛勢衰えませぬ”
使者は伊豆に派遣した庶兄足利政知の家臣・朝日である。朝日は、別して手立てあるよう、義政に注進した。東の古河公方・足利成氏と、西の畠山義就。将軍軽視という意味で、どちらも根は同じであった。この日、義政は畠山義就を朝敵にすることに成功した。
思えば、義政の戦略は当初から極めて不自然であった。河内の東については、即座に興福寺に封鎖をさせながら、いずれも細川領国である北の摂津・南西の和泉については、義就軍のなすがままにさせた。義就は、誘われるがまま、大阪平野に兵を分散させ。“兵をいずこに展開させるべきかを見失った”。
二十四日、雨。三宝院義賢から、未だ京に滞在する経覚のもとに書状が届いた。
『畠山右衞門佐事御引級之由有其聞事候間、下向不可然云々』
“畠山右衛門佐(義就)をごひいきにされているとの噂がありますな。帰国お待ち下され”
何を言うのだ、思わず経覚は漏らした。
―室町殿は、既に右衛門佐への包囲体勢を整え終えている―
十月四日、河内の彦三郎の手の者が来た。紀州で義就派が敗れたという。
『粉河寺有合戰、譽田依打負引退河内』
“紀州の粉河寺で合戦があり、義就派の誉田が敗れ、河内に逃れました”
いよいよ、義就は手足もがれ、兵が分散したまま大阪平野に閉じ込められたのである。政長方大将を聞く経覚に。彦三郎の使者は、「遊佐次郎・恩地・熱川」と答えた。
紀伊・大和方面では、虚報が錯綜し、事実確認に手間取るようになった。今も、畠山政長が討死したとの報が二三方から流れる。夜、唐橋在治が来た。政長が龍田の陣で落馬したという。何でも具足姿で乗馬したが、落ちて、手を突いたという。田舎では治療ができず、京の東山に養生していると声をひそめる在治に。経覚は、もはや何が本当か分からなくなった。忍びが動いているのか。しゃくになった経覚は、「また興福寺の別当にしてくれ」と日野勝光(富子の兄)に打診した。七日、何故か御所様に掛けあってみると返答がきた。
河内の畠山義就は、これらの虚報に誘い出された。すなわち、大和への侵攻を開始したのである。大阪平野で囲まれた末の、東の大和の畠山政長怪我の噂。義就は抗えなかった。
十日、曇り。卯の刻(午前五時~七時)。義就軍は畠山政長の龍田城に押し寄せた。
『畠山右衞門佐者信貴山ヘ取上』
“畠山右衛門佐(義就)は信貴山に本陣を布いた”
越智家国らが東の龍田城を目指して進撃し、別働隊が北東の平群郡・嶋氏の城(「島左近」こと、島清興の先祖ら。「椿井城」だろうか)を攻めた。
●義就軍:義就(信貴山)、越智家国・誉田全寶・遊佐国助(龍田城へ)、中村(嶋攻め)
●政長軍:政長(龍田城)、平群郡・嶋氏(椿井城)、成身院光宣・筒井順永
『於西口有合戰』
“龍田城の西で合戦となった”
経覚は「陶御輿河原合戦」とも表現しているので、竜田川近辺で衝突したのだろう。
武運は、畠山政長にあった。というより、これも含めて、仕込んだのだろうか。この時、成身院光宣は龍田城になく、東の禅定院(奈良の東大寺の南西にある)に後退していた。「風呂のため」だったという。嘘くさいので、陽動と思いたい。そこに、義就方先鋒・越智家国ら侵攻の報が届いた。光宣は手勢を率い、筒井順永勢五十(筒井城)と合流した。筒井城は龍田城の東。西の竜田川で合戦する両軍に対し、行動を取りやすい位置にあった。
『是筒井弥次郎後政ヲ沙汰之間陣破』
“筒井勢らは、合戦を行なう政長勢に呼応し、背後から越智勢(義就軍)の陣を破った”
前方の政長勢に、後方からの筒井勢。前後から挟撃された、越智勢は脆かった。
『先陣越智備中守家國・彦三郎・同末子彦左衞門以下被打了』
“先陣の越智家国・彦三郎・彦左衛門らが討ち取られた”
先陣大将を失った越智勢は、西に後退した。
『惣勢五百計寄畢、備中・彦三郎以下被打、殘分三百計鍋山ニ取上テ取陣』
“総勢五百の越智勢は、家国・彦三郎を討たれ、残兵三百で西の三室山に陣を後退させた”
そこに、政長勢・筒井勢が追いつき、三室山を包囲した。
『譽田遠江入道・遊佐河内守國助・三宅以下大畧被打了』
“誉田全寶・遊佐国助・三宅以下、大半が討ち取られた”
一方、平群郡・嶋城(椿井城だろう)でも、勝敗は決した。
『嶋城へ押寄者ハ遊佐内者中村ト云者也、沙汰損テ中村以下大畧被打云々』
“嶋城へ攻め寄せた者は、遊佐家臣・中村らであるが。攻め損じ、大半を討たれた”
『獄山ヘ引籠』
“畠山右衛門佐(義就)は、(信貴山から西に逃げ)河内の嶽山城に引き籠った”
畠山義就は、将軍足利義政の戦略に完敗したのである。十三日、晴れ。経覚のもとに、三宝院義賢から、先日の合戦について聞く書状が届いた。経覚は、「知らないです。ただ、首が多く都に献上されるようですよ」と答えてやった。十七日、遊佐国助らの首が届き、六条河原に八十二の首がさらされた。これを見物しようと、都の往来は大混雑となった。




