【義就の博打】
一四六〇年秋、こうした中でも、将軍足利義政の室町第造営は進められた。この年のうちに会所・泉殿など主な建物が完成し、庭園の泉水が整備された。泉水の造営に活躍したのが善阿弥で、庭園には各地から樹木・庭石が徴発され、山名宗全らがそれを運び込んだ。
善阿弥は河原者出身の庭師。その頃、既に七十歳を超えていたと言われる。河原者とは、例えば京の鴨川の河原で暮らす人々を指し、河原暮らしで洪水にあうため、田畠も僅かである。その代わりに免税され、壁塗り・庭造りなどを行なった。善阿弥は、足利義満の頃から禅僧の指示で庭造りに従事する中、いつのまにか築山引水の名手となった。一代の叩き上げの大庭師であった。義政にその才を愛された。
室町第造営中のある日、高齢の善阿弥は病に倒れた。善阿弥を心配した義政は、高価な薬を病床に贈り、毎日その病状を報告させた。義政は、人を才能で観る柔軟さがあり、優しかった。このあたり、頭の切れる日野富子が、義政を好いた所以ではないかと思う。
大泉水が完成した時、義政は善阿弥達に錢五千疋を与え、その功に報いた。
九月二十一日、家督を失った畠山義就は河内にいた。京にいた奉公人全てを連れている。
『廿一日自眞木城下着若井、馬上三百騎計□□□□人計見之由、檢』(経覚私要鈔)
“(河内交野郡)真木城から(南西の)若江郡に入った。騎兵三百・雑兵□□人ほどである”
「騎兵一に雑兵三」だとして、雑兵は九百程度。約千二百人が従った計算となる。
●交野郡(河内国生産の8.0%):21万3千石×8.0%=1万7千石・推定兵力425
●若江郡(河内国生産の12.9%):21万3千石×12.9%=2万7千石・推定兵力675
したがって、交野郡・若江郡で養える兵力は、「425+675=1,100程度」に過ぎない。すなわち、河内に逃れたのは良いが、早くも“兵力維持が困難な状態”になったと思われる。義就が生き延びるには、京で家督を継いだ畠山政長と戦う他なかった。
これは、将軍足利義政や管領細川勝元の把握するところであった。
『畠山弥次郎來廿六日令出仕可移屋形云々』
“畠山政長を、二十六日から、御所に出仕することとし”
『□衞門佐可被責之由及御沙汰』
“右衛門佐(義就)を討伐することとなった”
義就は、根来寺に大敗したうえ、京から追い出され、討伐を受ける身となったのである。
二十六日、曇り。義就は河内・寛弘寺に陣を敷いた。
『大和方於面面取陣之由申云々、被責者自當國筒井・箸尾樣者可向之由』
“大和からは、筒井順永・箸尾宗信が(義就討伐に)出陣する”
ここで弱みを見せたら滅びる。戦は博打だ。
『右衞門佐形勢事外有武備之聞、衆人令稱美云々』
“右衛門佐(義就)は、軍勢の武備をことのほか厚くした。衆人がその美しさを称えた”




