【おおまか経済六 検証:畠山義就の根来攻め大敗は「どのくらいの痛手だったのか」】
一四六〇年五月、畠山義就は根来攻めに大敗した。当時、畠山義就の守護国は河内・紀伊・山城・越中。一四六七年頃の推計で、これらの石高は、おおよそ次の通りであった。
・河内:21万3千石
・紀伊:27万3千石(但し、8~9割が高野山・根来寺領)⇒多めに見て、5万4千石
・山城:14万9千石(半分以上、公家・寺社荘園か細川被官)⇒多めに見て、7万4千石
・越中:36万6千石
ここから、畠山義就領国の兵力を計算しよう。当時、「40万石で1万人」が動員された。
・河内:5,325人
・紀伊:1,350人
・山城:1,850人
・越中:9,150人
だが、兵を動かす際、諸大名は「領地の護り」も考え、一定数を領国に残さなければならない。室町・戦国時代、諸勢力は、およそ次の形で兵を動かした。
①近隣に兵:総兵力70%(1434~1435年、「永享の山門騒乱」の山城国伏見荘の『着至』)
②隣国に兵:総兵力55%(1575年、上杉謙信の越中出陣の『御軍役帳』)
③遠国に兵:総兵力30%(1559年、長尾景虎の上洛)
以上を踏まえると、義就の「根来攻め」動員可能兵力は、以下のように推計される。
・河内(隣国):2,928人
・紀伊(近隣):945人
・山城(遠国):555人
・越中(遠国):2,745人
⇒畠山義就の動員可能兵力:7,173人
さて、これを踏まえ。「粉川円福寺の合戦」での、畠山軍敗北を検証しよう。
『西川原 伊賀衆悉被討、此外侍分者四百余人、雜兵不知數』(経覚私要鈔)
“西川原・伊賀衆がことごとく討たれ、そのほか侍四百余人、雑兵数知れず”
西川原・伊賀衆は外部からの傭兵的存在だったようなので。実質損害は、侍と雑兵である。
●“侍400+雑兵400以上(「数知れず」だから、400よりは多い)”÷7,173=11%以上
義就は、一回の戦いで、動員可能兵力の11%以上を失った計算となる。現代の戦争でも、「部隊の10%が戦死すれば“全滅扱い”」である。11%以上を失くした義就は、「畠山家の軍を崩壊させた」ことになる。武闘派きどりの義就は、“凡将の烙印を押された”。
義就に対し、隠居を申し渡した将軍足利義政の判断は、至極妥当であった。義就は畠山家を纏められる器ではない、となったわけである。通説では、「義政は、定見なく畠山の家督を、ころころと義就から政長に変えた」と言われるが、事実は、全く違うようだ。




