【義就の凋落】
一四六〇年五月、紀伊。根来寺と円福寺の間で、灌漑をめぐる係争が起きた。紀伊守護畠山義就は、根来寺に迫り、能登守護畠山義忠も仲裁に動いたが、根来は応じなかった。
『六日、根來領畠山出勢燒拂之間』(経覚私要鈔)
“六日、畠山勢が、根来寺領を焼き払った”
根来は、これにも屈しなかった。八日頃、畠山勢は苅田を行い、領内の財宝を運び去った。
『根□□者共思切、同十日守護方取陣所□□□押寄』
“十日、思い切った根来寺の者達は、畠山勢の本陣・円福寺に押し寄せた”
俄かのことに、畠山勢は次々と討たれ、大都紀川に追い落とされた。
『遊佐豐後守 □□□□入道父子 同五郎 □澤山城□』
“遊佐豊後守、神保近江入道父子・神保五郎、木澤山城守らが討たれた”
他に討たれたのは、塩谷父子・貴志新庄・小倉下野守・保田弥四郎。
『西川原 伊賀衆悉被討、此外侍分者四百余人、雜兵不知數』
“西川原・伊賀衆がことごとく討たれ、そのほか侍四百余人、雑兵数知れず”
権門・根来寺と揉めた末の大崩れ。畠山義就、痛恨の大敗であった。
六月、伊勢貞親が政所執事となった頃、伊豆三島に怪物が出たと鎌倉から注進があった。
『伊豆國いかこの宮ニ出現云々』
“伊豆国いかこの宮に出現した”
妖物は、頭が人で、首から下が鳥であった。経覚は、その姿絵を自筆で残している。
『關東妖物□□□□□□□□可京着云々』
“(十六日)関東の妖物は、京に運ばれることとなった”
珍しいこともある、と経覚は思った。単なる噂か、それとも本当に現れたのだろうか。
十九日、将軍足利義政の側室三条氏(三条公量の娘)が、難産で卒した。
『子同死云々』
共に亡くなったのは男子。いよいよ、義政の室は、日野富子をおいて他になくなった。
八月、飢民の流入が増える京で、一休宗純が偈を作った。
『大風洪水万民憂。歌舞管弦誰夜遊』(狂雲集)
“大風に、洪水が起き。万民が憂いている。そんな夜に、誰が音曲歌舞を楽しむ”
九月十六日、政所執事・伊勢貞親が、畠山家臣の遊佐弾正と誉田祥栄を呼び出した。その席で、両者に「当主義就の隠居と猶子政国への家督譲渡」が言い渡された(長禄四年記)。
今、京には畠山政長がいる。紀州で根来寺と揉め、攻撃を仕掛けたあげく大敗した義就父子から守護職を取り上げなかったのだから、義政の措置は恩情的であった。
だが、二十日、上意により河内へ没落する義就は、京の家臣らの邸を焼き払わせた。温情を無下にしたか。義政は、義就を見限り、政長に畠山の家督を認めた。




