【脱線十一・時の亡霊】
一四六〇年三月、京六条の道端に倒れ臥す親子がいた。僧・大極が近付いたところ、すでに子は冷たくなり、母親は地に倒れ、慟哭していた。路人が問うたところ。
「河内の流人でございます。三年の日照りで作物とれず、年貢を責められ、出さねばとがめにあいまする。国を出て乞食をし、命をつないで参りましたが、子供はとうとうご覧のとおりになってしまいました」(碧山日録)
大極は、女の悲嘆に呑まれた。力なく、その場を去ったところ、今度は花見帰りの貴公子らとすれ違った。浮かれる一行は、通行人をにらみつける者、馬前の従卒を罵る者、たわむれて花を奪い合う者、酔歌抜剣する者、嘔吐して道に倒れ込む者。
―悲嘆と乱酔が、同じ場にある―
連年の天侯異変、旱魃と長雨はますますひどくなっていた。備前・美作・伯耆は「人民相食む」飢餓に陥り、越前でも餓死者が出て、京への流れ者は増す一方であった。
二十八日、曇り。京でちょっとした騒ぎが起きた。時の亡霊が出現したのである。
『楠木部類ト云者、以廻文成僧遊行之間』(経覚私要鈔)
“楠木一族を名乗る者が、書状を持ち、僧行で諸方を訪ね廻った”
「曽根崎」というものが、これを召し捕った。
『今日□条河原被伐之了』
“今日、六条河原で処刑された”
首は四塚に晒された。楠木正成が活躍したのは一三三〇年代。子の正儀も、一三九〇年頃には、消息を断つ。孫の正勝は、一三九九年、応永の乱で大内義弘の堺籠城に応じたが、将軍足利義満に敗れ、その時の傷で翌年亡くなった。のち数十年、楠木一族は、義持・義教によって、散々掃討された筈だが。
―まだ、生き残っていたのか―
かつて、楠木一族は、摂津・河内・和泉の民に支持される存在であった。だが、いまや天下の飢饉に乗じ、暗躍する存在に変わっていた。
『室町殿事出來タルトテ、諸大名所從以下馳歸テ令告之間』
“「室町殿(将軍足利義政)に一大事」と、諸大名・奉公衆が馳せ参じた”
甲冑武者が御所に集まり、散々の騒ぎとなった。やがて、時だけが無為に過ぎた。
『然而無殊事』
“事なく落ち着いた”
この日の記録が、「楠木」最期の消息となる。以降、楠木は歴史の闇に紛れた。正成の子孫は伊勢に逃れて刀工・村正に師事し、現当主は「川俣」正重を名乗る。最早、地上から楠木は消えた。その役割は終わった、というのが当時の人達の本音であったと思う。
その後、御所や諸大名邸には、各方面から、騒動の礼を述べる使者が『少々』往来した。




