【伊勢家を抱き込め】
一四五九年十二月、将軍足利義政(二十三歳)のもとに、関東の実態が伝わり始めた。古河公方足利成氏はしぶとい。二十六日、義政は、先月の合戦(羽継原の戦い)で負傷した岩松宮内少輔に御教書を発している。利根川西の諸大名は抑えた。だが、先は長い。
この頃、義政は、和歌で心情を吐露している。
『サマザマノ事ニフレツゝナガクゾヨ、道サダカニモヲサメヱヌ身ヲ』
“様々な出来事に出くわすたび、前途を容易に見出せぬ身を、嘆く”
父義教なら、鎌倉公方や結城一族を討ったように、強引な動員を掛けて古河公方を一気に討滅しただろう。だが、父の路は、横死の路である。同じ轍は踏めぬ。父よりも慎重に。父よりも温和に。父よりも味方を得ながら。義政の路は、「さだかならぬ道」であった。
一四六〇年六月、義政は、二階堂忠行に代わって伊勢貞親(四十三歳)を政所執事とした。貞親は伊勢家惣領。一四五四年五月、家督を継いでいた。同年の土一揆では、「分一銭」の実行に成果を上げている。一四五五年からは、義政の御内書に副状を添えている。義政は、これを機に、管領細川勝元の手から、幕府奉行人の統轄権をもぎ取った。今や、幕政の多数は、管領状ではなく、義政の御内書で動くようになった。足掛け五年、長かった。
政所は、足利将軍家の財務を運営する機関である。三代将軍義満の頃から、伊勢家が代々執事を務めた。仕事は二つ。「①将軍家直轄領(御所料)の運営・訴訟」と「②京の土倉・酒屋への徴税」。まず、直轄領運営とは、代官を務める“奉公衆の統制”を意味した。
●奉公衆:将軍直轄軍。御番衆が中核。五番編成。畿内の実力者・畠山の分裂で発言力。
①足利家譜代(伊勢など)②鎌倉時代以来の名門(大館・東氏など)③諸大名庶流(佐々木・赤松など)④地方の有力国人(中条・小早川など)。
次に、土倉・酒屋への徴税とは、“京の金融業者への支配実行”に他ならない。将軍直轄軍と首都金融。政所執事の、幕政における重職ぶりが窺える。一四六〇年、義政は関東の諸大名への取次ぎも、貞親に任せている。古河公方・足利成氏との連戦を機に、義政は名実ともに、関東(主に利根川西)諸大名に対する指揮権発動に成功していた。
伊勢家こそ足利将軍家股肱である。
由来、足利将軍は、幼少期を伊勢邸で過ごす。兄義勝も、貞親の父に養育された。義政は、弟に過ぎぬため、公家の烏丸資任邸で育った。資任は、母日野重子の従兄弟である。十八歳年長で、いうなれば、おじのごとき存在であった。
―だが、代々の将軍のように、伊勢守(貞親)夫婦を御父・御母と慕わねば幕府は動かせぬ―
義政は、元服まで己を護ってくれたのは公家であるという事実のみを心にとめ、成長後、公私を捨てる道を行くことを決意した。伊勢家を抱き込まねばならぬ。義政は思案を重ね、月に一度、伊勢邸に宿泊し、貞親一族を取り立てた。
後年、妻日野富子は、義政を容易に物事に動じぬ人と述懐している。
このあたりの義政の苦悩が、「為政者の悩み」ですな。
関東八ヶ国に対し、「急進路線」か「斬進路線」か。
父義教は前者を採って、総スカンを食らったのであり。義政は同じ真似はしなかったのです。
記憶しておくべきは、「義政の政治」が安土桃山文化・日本文化に直結している点で。
義政を、武家・公家・寺社のすべてが、何らかの形で認めたことは覚えておくべきでしょう。
義政のやり方は賢く、現代でも通用する”何か”を持っていたのです。




