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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【関東の嵐1 ―羽継原の戦い―】

一四五九年秋、関東は利根川を挟んで、上杉と古河公方の睨みあいが続いていた。この年、武蔵国五十子に、渋川義鏡・上杉房定(越後守護)が合流し、京方が集結した。

●堀越公方(京方)・五十子陣:足利政知(堀越公方、伊豆から動かず)

・渋川義鏡(関東探題、山名宗全の娘婿)

・山内上杉房顕(関東管領)…(家宰・白井長尾景仲は上野白井に)長尾忠景(総社長尾、景仲の子、神奈川にも所領)・長尾景人(足利長尾)・長尾景春(白井長尾、景仲の孫)、小山常陸介・芳賀中兵衛尉・岩松持国・岩松宮内少輔(持国の子)・岩松家純(将軍代官)

・扇谷上杉持朝(上杉の長老、武蔵中南部~相模を支配)…大石九郎・豊島弥三郎

・上杉房定(越後守護)…長尾頼景(守護代、謙信祖)・飯沼頼泰・毛利房朝・本庄三河守

こうして京方を見ると、「堀越公方」に「関東探題」に「関東管領」。一体誰が、どう偉いのか、つくづく分からない集団であった。“元凶”は、将軍足利義政である。

そも、堀越公方にした庶兄政知に、「伊豆から動くな」と言っている(伊豆の南は“硫黄島”、火薬の原料である“戦略物資・硫黄”の産地)。

①「戦略物資“硫黄”の産地・伊豆」:鎌倉公方の管轄国→庶兄を介し京管理に

この時点で、明や李氏朝鮮との交易拡大を進める義政は、笑いが止まらぬ状況であった。政知には、京下りの奉行人が付き添う。さしずめ、庶兄は「硫黄の管理人」であった。


その上で、“庶兄が入る予定のない関東”の利根川西(上野・武蔵・相模)には、「関東探題」と「関東管領」を並べるのだから、義政は「確信犯」であった。『慶長郷帳石高』(一六〇四~一六一〇)をもとに、応仁の乱頃の「利根川西の生産」を推計しておこう。

●合計103万石:上野(32万石・31%、山内上杉領国)、武蔵(58万石・56%、山内上杉と扇谷上杉で折半)、相模(13万石・13%、扇谷上杉傘下の三浦氏・大森氏など)

“利根川西の56%”、武蔵国の生産力が異常に高い。関東管領が武蔵を統一すれば、利根川西を掌握される。「関東八州(236万石)」も、呑まれるだろう。関東管領が、鎌倉公方に取って代わり、やがて関東が独立するだけであった。

②関東の利根川西地帯(上野・武蔵・相模)を、将軍権力の介入が可能な地域にする

庶兄も関東探題も、関東を“纏めぬための”装置だった。


十月、『都合七千余騎』(松陰私語)の五十子陣から、山内上杉房顕・扇谷上杉持朝らが、東の古河に向かい発行した。古河公方軍も応戦し、各地で衝突した。十四日、武蔵太田荘。十五日朝、上野海老瀬。夕刻、やや西に後退した佐貫荘・羽継原(羽継原の戦い)。戦いは、古河公方の勝利となった。上杉房顕は、西方の武蔵五十子陣に後退し。上杉持朝は、南の河越城(扇谷上杉の本拠)に逃れ。渋川義鏡は、岩松家純と共に浅草に退いた。

十一月十四日、京に「越後守護が七百騎で利根川を渡り、二千余人を討った」と報が届いた(碧山日録)。明らかに義政の叱責を恐れている。利根川西諸侯は、義政に膝を屈した。

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