【遠江と尾張と美濃の事情】
一四五九年八月、遠江中部で今川範将(今川了俊の孫、祖父の縁で斯波領国・遠江の堀越・河井に領地)が、守護斯波家に反する一揆を形成した。参加するのは、原・小笠原・久野・名和・尾崎・垂木。これを、現代では「中遠一揆」と呼ぶ。これを機に、遠江は守護斯波家と今川勢(背後に、駿河守護今川範忠・義忠父子)の衝突する地となった。
斯波家は踏んだり蹴ったりであった。越前動乱で、前当主・斯波義敏が大内家に亡命したと思えば。新当主の嫡子松王丸(斯波義寛)で、早速内乱である。甲斐敏光・朝倉孝景が討伐に派遣された。だが、一揆は強く、遠江では膠着が果てしなく続いた。
―斯波家は二度と強力にしたくない。一揆が長引くなら、それでも良い―
将軍足利義政は、遊兵と化した甲斐・朝倉軍を、関東遠征に進発させた。結局、決着がつかぬまま、一四六四年今川範将は亡くなる。義政は、狩野七郎右衛門尉(斯波派、遠江中部見付の領主)の訴えを認め、範将の旧領を御料所(将軍直轄領、実質は狩野領)とした。
―斯波家は弱らせる。だが、関東が混乱する中、遠江に欲を出した今川の罪も重い―
今川家から遠江領が取り上げられ、三河吉良家の巨海新左衛門尉が、見付城に加勢した。斯波・吉良連合軍が圧迫する中、今川は駿河に逼塞し、弱体化した。義政は、斯波領国遠江に楔を打ち込んだ形となる。遠江は各勢力の思惑が交差し、一揆が頻発した。
義政は、斯波家の抑え込みを重視した。この時期、丹後守護の一色義直(四職の一家、父義貫は義教に暗殺されたが、家督が空席となって守護に)が優遇された。
●一色義直の領国:丹後・伊勢北半国(守護)、若狭小浜、三河渥美郡
いずれも、「斯波領国である越前・尾張・遠江を囲む地」である。斯波家は、一色家によって包囲された。更に、一色義直の弟義遠が、「尾張知多分郡守護」(知多半島は、尾張でも別国扱い、戦国時代、織田家でも徳川家でもない水野家が活躍)となっている。一四六〇年九月頃、義遠は知多郡内海で海荘廻船公事を押妨している。更に、一四六三年、八社神社を再建した(八社神社棟札)。つまり、知多半島の商業活動に強力介入した訳で、伊勢湾の斯波家の経済活動は、知多半島・渥美半島をおさえる一色によって、掣肘を受けた。
一色義遠は、義政の信用を受けた。その証左が、美濃守護・土岐成瀬の誕生である。一四五五年、美濃の土岐持益(四十九歳)は、孫の亀寿丸に家督を譲ろうとした。だが、持益は、一四四一年頃京に逃れた足利成氏(又はその兄弟)を庇護した時期があった。
―古河公方・足利成氏一党を生み出した元凶ではないか―
美濃の実力者である守護代・斎藤利永が、一色義遠の養子であった成瀬(土岐一族の饗庭元明『土岐累代記』か、佐良木光俊の子『土岐系図』)の擁立を言い出し。一四五六年、一色から戻された成瀬が家督を継いだ。後代、美濃の斎藤道三や義龍が“名門一色”を名乗りたがったのは、これを原因とする。道三の狙いは、一色を名乗って、斯波家の地磐を継いだ越前の朝倉義景や、尾張の織田(信清ら、信長以外)を抑え込むことだった。




