【脱線九・十五世紀「アジアの構造」と日本 ―外交の天才・足利義満―】
十五世紀、アジアには多数の国家が存在する。インドよりも東にある国を確認しよう。
●日本・李氏朝鮮・明・韃靼・瓦刺・チベット・黎朝(北ヴェトナム)・占城(南ヴェトナム)・アンコール朝・アユタヤ朝・マラッカ王国・マジャパイト王国・ビルマ・ペグ―・アラカン
注目すべきは東南アジアで、多数の王国が成立し、大経済圏が整いつつあった。
明こと「大明帝国」は、この中で、その盟主たらんとしていた。それが“華夷秩序”である。その中で、明が、最も細心の注意を払って交渉したのは、史実として日本である。
ここで、足利義満に登場してもらい。日本の立場を見ていこう。
一四〇一年五月、三代将軍・足利義満は明の建文帝(第二代)に国書を送った。
『日本准三后某、上書大明皇帝陛下』(応永八年 辛已 五月十三日)
“日本国「准三后」、明国の皇帝陛下に国書を「上書」します”
さて、「外交の天才・足利義満」を理解するには、説明が要る。
説明しよう。『上書』とは、「上官等に書状を送る」ことを意味する。普通、他国が明に国書を送る時は、『上書』ではなく『上表』(天皇や皇帝に書状を奉じること)という表現を使う。即ち、義満は「上表文」以外の文書で、通商を求めたのである。
一三九九年、明では「靖難の変」が起きている。燕王朱棣(後の永楽帝)の攻勢を受ける建文帝は、東アジア全体の勢力関係を踏まえ、何とこの国書を“受け入れた”。義満は、院や帝の権威に傷を付けることなく、明と接触を開始することに成功したのである。
一四〇二年八月、明の使節団が兵庫に来着した。九月五日、足利義満による明国使節団の接見が行われた。その詳細は、『宋朝僧捧返牒記』に記され、宮内庁に所蔵されている。
『先通事二人<正使祖阿等歟>、乗手輿』
“まず、通訳二人<正使・祖阿ら>が、手輿に乗って現れた”
そのうしろに、相国寺の大嶽和尚と建仁寺の大年和尚が付き添う。
『次唐僧之侍者持牒状、乗手輿』
“その次に、明の僧が並び。(明の皇帝からの)「国書」を持って、手輿に乗った”
更に、明国使節団の数名が後ろに続く。
これを迎える日本側には、足利義満が控える。「すでに征夷大将軍の位は、息子義持に譲っている」。奇妙なことに、その義持の姿はなかった。それどころか、管領畠山基国の姿も、実力者・斯波義将の姿も、会場には見えない。
この時点で、気付く者ならば、気付く。「義満は、わざと出席者を絞っている」。義満が本気で参加を願えば、もっと人が動く。例えば、一三九九年、相国寺に大塔を建立した時、九月十五日の落慶法要(完成式典)では、一条経嗣が出席している。それも、日頃この手の行事で遅刻を嫌う義満に気を使い、夜中の寅の刻から供も付けずに出発し、会場に一番乗りしている(いたずら好きの義満は、一三九四年三月の南都の常楽会で、会場に「夜明け前から」桟敷を設けて着座し、しかも「後から来た、遅刻者達に出席を許さなかった」前歴を持つ。そんなのは、「遅刻」とは言わないが)。この例を踏まえると、こう言えた。「義満は明の使節団と会う人物を調整した」のだと。
①足利義満は、明国との通商交渉を「自分一代の責」にしていた(朝廷・将軍は無関係)。
すなわち、自分がしくじっても、朝廷・幕府に害が及ばぬようにしていたのである。後年、義満の子である四代将軍義持も、明に対して外交戦を挑む(【明へ行こう5】)。実は、義満は、“最初から、(義持らが)そうすることも可能な、布石を打っていた”のである。
無論、明との通商交渉が成功した場合、「幕府は、何食わぬ顔で義満の成果を引き継ぐ」こともできた。義満は、非常に高度な外交戦略を立案し、実行していた。
北山殿に到着した明の使節団は、四脚門をくぐった。義満は四脚門で使節団を迎え(貴族社会では、来客に対して行う最も厚い礼である)、中へ導く。一行は中門に向かう。その路を、今出川(菊亭)公行らが迎える。義満と気心の知れた、有志らである。
中門をくぐり、母屋に向かう。母屋には、義満と明使節団が座る椅子が並んだ。
●義満の椅子<北>・机<中央>・明使節団の椅子<東西>
なにやら、【脱線八・複雑怪奇な日朝通商交渉史】でもこんな話が出てきたが、ご記憶だろうか。「北」に座る事は、「南面」(国家元首の座り方)を意味する。机を挟んで、使節団は「東西」に着座いただくということは、「義満が北で、明国使節団は南」ということである。
●「准三后・足利義満>明の使節団」
明国使節団にこの礼式を承諾させた時点で、義満は、「日本国建国以来、最大の外交功績者」であると言える。何故なら、「准三后・足利義満の上には院や帝がおわす」のだから、
②「院や帝>准三后(朝廷の官位)・足利義満>明の使節団」
当時、足利義満は征夷大将軍も太政大臣も隠退している。頭も剃り、出家の身であった。だが、「朝廷の官位・准三后」を帯びる身であった。明国使節団は、「義満の法体(僧侶姿)と同士達(一見すると、「沢山の貴人がいる集団」)」の外見に引っ掛かったわけであり、まんまと「有志だけがいる空間に誘い込まれた」のである。
狐につままれたように、明国使節団は、恭しい態度を崩さぬ義満に誘われ、母屋に通じる階段へ。「北の椅子」に義満が着座したのを見計らい、階段を上って母屋に入った。いよいよ、国書が机に置かれる。大役を果たした明使は、「机の東の椅子」に着座した。
「机が義満の椅子の南にある」ことを、思い出してほしい。義満は、使節団が持ってきた「明国皇帝の国書に対しても、南面することに成功」したのである。
●「准三后・足利義満>明国皇帝の国書」
通常、これは他国ならあり得ない。およそ、アジア諸国の中で、明の使節に応対した各国国王は、次のような位置で使節に臨む。
●明国皇帝の国書<北>・香案<中央>・明国使節団<東>・各国国王<南>
お分かりだろうか。各国国王は「南」に立ち、「北から南面する明国使節団から」明国皇帝の国書の読み上げを受け、拝聴するのである。
●「明国皇帝の国書>明国使節団>各国国王」
拝聴が終わった各国国王は、国書に対し、「ひざまずいて五回拝礼」する。即ち、明国使節団の応対が終わる頃には、「明国皇帝>各国国王」が成立する。
祖父足利尊氏以来、命懸けで日本を護って来た足利義満は、そんな迂闊なことはしない。義満は、「北の椅子から、明国皇帝の国書とも、明国使節団とも南面」する。
だが、それを高慢と思わせないのが、北山殿・足利義満の手腕である。義満は「南面したまま」国書がある机に近付いた。ここで「焼香、三拝(三回拝礼)」する(満済准后日記)。
●「国書への拝礼回数を、五回から三回に削減」
兵庫に到着して以来、「おおよそ一ヶ月間、義満直々の大歓待を受け続け」、義満の人となりを好いた明国使節団は、これを咎めることができなかった。目の前で、とんでもないことが行われている。仮に、明国皇帝にこれを報告すれば、自分達の首が飛ぶ。だが相手は、指導者でありながら、一ヶ月間も、自ら他国の一臣下の自分達を接待し続けてくれた、義満である。この行動、止め難い。明国使節団は動けない。どうする。だが、国書の儀は進行する。まるで、「全てが最初から、こうしたい、と覚悟の計画があった」かのように。
結局、明国使節団は、義満の覚悟を止められなかった。彼らの目の前にいる義満は、国書を持ち上げ、読みはじめた。
もはや、使節団の中には、緊張に震え出す者さえいた。「他国の者が国書に触れている」。
―自分達は、今、とんでもない男を相手にしている―
こんな事、皇帝に、そのまま報告はできない。できる訳がない。結局、彼らは、この出来事を胸のうちに留め、皇帝への報告を工夫する道を選んだ。義満は次のことに成功した。
●「明国使節団による皇帝国書の音読を“封じた”。自ら読んだ」
しばし、儀典会場に立ち尽くした明国使節団は、ややあって義満が国書を読み終えたことに気付いた。我に返った使節団の一人が、進物を携え、義満のもとに向かった。
義満は、最期まで、「南面したまま」であった。
この一四〇二年九月五日の儀式の結果、アジア世界には、次の構造が誕生した。
③「明>足利義満≧その他の国」
義満は、当時のアジアの全ての国家に対する、「外交優位」を確立させたのである。しかも、“明国使節団のお墨付き”で。
ここまでは、表面だけの話。義満の狙いは、もっと深かった。「焼香、三拝(三回拝礼)」。この儀礼であるが、日本の貴族社会の儀礼で言えば、「仏菩薩への礼」である。
④「院や帝=明の皇帝」
義満は、“さりげなく”、これを明国の使節団の目の前で実演し、「既成事実とすることに成功」したのである。整理しよう。アジア世界の構図は、こうなった。
⑤『院や帝』=『明国皇帝>足利義満(日本国王)≧その他の国王』(華夷秩序)
すなわち、「院や帝は、明国皇帝と対等。即ち、『華夷秩序』そのものと対等」。これを十五世紀のアジア世界の秩序に組み込むことに成功したのである。日本は“十五世紀のアジア世界で、全てのアジア諸国と対等に交易を行い、繁栄していく国”と承認された。この点で、義満こそ、楠木正成以上の大忠臣に他ならない、のである。史実なのだから。
これは、史実、明の認めるところでもあった。そもそも、明は初代洪武帝以来、日本を「唐朝以来の友好国」と認めている。一四〇三年十一月、「靖難の変」に勝利した永楽帝は、義満に「制」を発している。
『勅日本國王源道義』(明成祖勅書別副)
“源道義(足利義満)を「日本国王」に柵封し、勅を下す”
何と、一四〇二年九月、命懸けの外交戦を明に対して展開した足利義満に対し、討伐するどころか、「日本国王」と認めるという勅を発したのである。
すなわち、これによって、「義満の振舞い(儀式でとった一連の行動)を、明国皇帝として承諾する」と返事したのである。承諾せぬのであれば、中国の皇帝は、勅など発しない。日本は「唐朝以来の友好国」として、“アジア世界の特別な国”としての地位を認められたのである。大明帝国は、「アジア最古の国・日本」の誇りを尊重できる国であった。
これは、日本と明だけの承諾事項ではなかった。だからこそ、李氏朝鮮の世宗も、「足利将軍=日本国王」に対し、「自分と対等な、日本国王(足利将軍)」という外交儀礼を取っている。あの、「外交儀礼に敏感な李氏朝鮮の国王」が、である。
なお、一四〇二年八月五日、義満が兵庫へ到着した明国使節団を歓迎しに行っている間。四代将軍足利義持は「笙始」を行った。当然、これは義満の差配した日程に従って実施されている。笙は足利尊氏以来、足利将軍家が最も重視した楽器である。これが済めば、晴れて義持も、名実ともに四代目の足利将軍。背後の息子に後代を託したうえで、義満は一人兵庫に向かった。これから始めるのは、明国皇帝を相手にした一世一代の外交戦。失敗した時、義満は全ての政治責任を独りで負って、死を選ぶつもりだったのだろう。
足利尊氏や足利義満が、命懸けで護ろうとしたものは、
「独立自尊の国・日本」でした。
日本は、”いかなる国とも対等であり、いかなる国とも友好を築く”
これは大変誇り高い決意であり、だからこそ、足利義満(育ての親の細川頼之も含めて)、
「超大国・大明帝国」(世界GDP30%の超巨大経済圏”華夷秩序”)と数十年の時間を掛けて、
交渉を重ねたのでした。本段は、その数十年間にわたる交渉の最後のシーン。
そのハイライトです。一国のリーダーたる者、かくあるべし。といったところでしょうか。
(何故、大河ドラマ化しないのだろう)
同時に、日本の国柄と決意を汲み取り。
アジア全体の勢力バランスを冷静に考察した上で、日本側(足利義満)の主張を尊重した、
明の永楽帝もさるものです。さすがは、明朝最盛期の皇帝。
永楽帝の頭脳の中では、
「彼独自の世界戦略」や「彼独自のアジア世界の新秩序」が思い描けていたのでしょう。
その上で、「日本とは、(世界の大局から目を逸らさず)仲良くしたほうが、政略・戦略上、正しい」と判断したのでした。四文字熟語でいえば、「大同小異」(小さな違いを越えて、共に未来を追求していく)というやつでしょうか。
(おそらく、日本から帰国した明国使節団から、足利義満というリーダーの人柄や能力を、それはもう詳しく聞き出して。「日本」という国の国力や、交易を開いた場合の可能性を十二分に考慮したのでしょう。なんせ、義満は、父洪武帝の時代から、交渉と外交戦を重ねてきた、”手強い”相手でしたから)
少なくとも、明の最盛期を実現した、世界史レベルのリーダーは「そうした」という話です。




