【十五世紀のインテリジェンス1 ―「応仁の乱」前の日本―】
室町時代の日本は難しい。まず、諸勢力が多過ぎる。誰がどう偉いのか分からない。現代の我々が思うことを、前段で来日した、李氏朝鮮の書状官・申叔舟も思った。
一四七一年、申叔舟は日本の諸勢力と国勢を調べ上げ、一冊の本に纏め上げた。『海東諸国紀』である。現代風にいえば、インテリジェンス(国際的な情報分析の成果)である。果たして、李氏朝鮮のインテリジェンスやいかに、と思われるかもしれないが。これが、良著であった。①まず、「応仁の乱」の真っ最中に纏められているので「隣国で始まった大動乱に対する独特の切迫感」がある。②交易商の生の情報が反映されたか、諸勢力の分析がリアルである。③盛んな直接交流の結果、京・九州を中心に、日本側の肉声が残されている。④諸国の分析が面白い。⑤海外からの視点なので、「日本人の遺した記録だと、当たり前のこととして省略されていることが、客観的に書かれている」。
以上から、応仁の乱前後の日本を知る格好の記録となっている。せっかくなので、『海東諸国紀』の分析をもとに、当時の日本を見ていこう。
<天皇>
始祖は神武天皇である。『海東諸国紀』では、歴代が紹介されている。
<足利将軍家:『国王』>
国王の姓は源氏である。現在の国王は、足利義政である。
『国中に於いては敢て王を称さず。只御所を称す』
“日本国内においては「国王」と名乗ろうとはせず、「御所」と称している”
その発する文書を「御教書」という。
『毎歳の元、大臣を率いて天皇に一謁し、常時はともに相接せず』
“毎年の元旦、大臣を率いて天皇に謁見し、普段はめったに面会しない“
『国政および隣国を聘問することは、天皇は皆な与らず』
“国務や外交使節の応対に関し、天皇は関与しえいない“
<国俗>
・天皇の子は、特定の一族(藤原氏のことだろう)から娘を娶る。足利将軍家の子は、諸大臣(日野家や正親町三条家のことだろう)から娘を娶る。
・『田賦は三分の一と取る』
“税は、およそ収入の33%である”
・槍と剣が好まれ。刃の精巧さは、たぐいまれである。男子は短剣を帯びている。
・飲食には漆器を使う。神性な場所では土器を用い、使い捨てる。はしを使い、匙はない。
・人と会う時はうずくまって座り、礼を尽くす。道で偉い人に会うと、履物と笠を脱ぐ。
・家は木板を使っている。瓦を使うのは、内裏・将軍の御所・寺社だけである。
・茶が好まれている。
『路傍に茶店を置きて茶を売る。行人銭一文を投じて一椀を飲む』
“路端には茶屋があり、茶を売っている。銭一文で一杯がのめる”
『人居は処処千百聚を為し、市を開き、店を置く』
“人家が集まっているところは、千百くらいが固まっている。市が開かれ、店もある”
『号して傾城と為し、過客を引き、宿に留め、酒食を饋りて直銭を収めしむ』
“(家の無い女子は宿で働き)「傾城」という。客をとり、有料で酒と食事を出している”
『故に行く者は粮を齎さず』
“だから、旅をするものは、食料を持たない”
室町時代、思ったよりも諸国は豊かで、流通も発達していたようだ。
・『男女と無く皆其の国字を習う』
“男女関係なく、字を学んでいる”
識字率は高かった。庶民はカタカナを習得し。漢字は、僧侶のものだった。『長谷寺霊験記』には、摂津国住吉の里の「藤五」が、書物を読ませるために息子を巻尾寺に預ける話が載っている。平安時代後期以来、「漢字を学ばせるなら寺に預ける」のが基本だった。
・男女の衣服は「青質に白文」である。庶民は、一部が烏帽子を被っている。貴人が被るのは「立烏帽子」という。笠は、蒲か竹か杉である。
<内裏>
土垣をめぐらし、大門がある。
『軍士数百把守す』
“(足利将軍や諸大名の兵)数百が、常に警固している“
足利将軍も諸大名も、朝廷には大きな敬意を払っていた。
『凡そ門を過ぐる者は皆な下馬す』
“内裏の門を通り過ぎる者は、みな下馬している“
『海東諸国紀』の申叔舟は、どの商人の分析を聞き出したのか、所領「二ヶ国分の税収」で運営されていると述べている。
<将軍の御所>
土垣がある。『軍士十餘(兵十人程度)』が門を警固している。「将軍御所よりも、内裏が大事」である。
<三管領>
・畠山:当主は畠山義就。李氏朝鮮に交易船を送ってくる。
・細川:当主は細川勝元。(一族はともかく、)勝元は、李氏朝鮮に船を“送って来ない”。
『山名源教豊の女を娶りて子無く、教豊其の幼子を属むを以て養子と為す』
“山名宗全の娘を娶るが、一向に子供が生まれず。宗全の子を養子としている”
但馬に隠退した宗全が復帰を望んだ時、宗全の子達は「父宗全の性が悪なので」聞き容れなかった。だが、勝元が将軍に頼み、復帰させた。宗全は『徳』“奇特だ”と言っている。
・斯波:『左武衛』。斯波義敏は李氏朝鮮に交易船を送って来た。
<その他、京の有力者>
・渋川:『右武衛』。かつて九州探題をしていたが、しくじって、京に戻っている。
・甲斐殿:斯波家の家政を取り仕切っている。李氏朝鮮は、大大名の格式で遇している。
・伊勢:将軍近侍の長である。足利将軍家の庶政において、財務を行っている。
・飯尾之種:将軍の近侍である。
<地方の有力者>
・古河公方:上総国に、『鎌倉殿』(古河公方・足利成氏のこと)の館がある。
『鎌倉以東に拠り手て、叛すること二十餘年。国王累に征するも克たず』
“鎌倉よりも東に割拠して、長い間反乱を起こしている。将軍が何度征伐しても勝てない”
正しくは、「上総国」ではなく、「下総国」なのだが。大まかな情勢分析は間違っていない。李氏朝鮮の興味は、関東や北陸以東には、あまりなかったようだ。
・大内殿:当主は大内教弘。
『大内の兵強く、九州以下敢て其の令に違う無し』
“大内家の兵は強く、九州の諸将は、その威勢に逆らことができない”
百済王・温祚の子孫である。
『最も我に親し』
“最も、我らに親しい”
守護代は陶家。陶家も、大内家と同じ「多々良氏」である。
・小二殿:少弐家。太宰府に住む。嘉吉の変の際、赤松討伐に兵を出さず、その咎で大内殿から討伐を受けた。対馬に逃れている。対馬・肥前は少弐の監督地である。
・大友殿:万の民を治め、二千の兵を動かす。当主の移り変わりが、よく分からない。
『博多を管し、小二と分治す』
“博多を支配し、少弐と分割統治をしている”
・田原貞成:大友家の親族にして、博多代官である。
・秋月成直:『秋月殿』、筑前にいる大友の家臣。『武才有り』。
・菊池殿:当主は菊池為邦。肥後・筑後太守を名乗っている。二千の兵を動かす。
・島津忠国:足利将軍の親族である。薩摩・日向・大隅三ヶ国を統治している。
・宗貞盛:対馬島の主。『毎年損実を踏験して収税し、三分の一を取る。亦其の一を三分し、二を当主に輸り、其の一を自用す』“対馬の収穫の22.2%が、貞盛に納められている”。
『島主の牧馬場は四所にして二千餘匹を可る』
“牧場を四つ持ち、馬二千頭を飼っている”
すなわち、当時、李氏朝鮮は九州・西国の状態はおろか。日本の中枢や京の有力者までもリアルタイムで把握し、それぞれの内輪の状況を掴むことに余念がなかった。




