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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【脱線八・複雑怪奇な日朝通商交渉史】

室町時代、日朝貿易交渉の中核となる「朝鮮通信使」の派遣は六回あった。

●内訳:一四一三年・一四二八年・一四三九年・一四四三年・一四五九年・一四七九年

うち、“京に到着できたのは三回(一四二八年・一四三九年・一四四三年)”であった。なお、一四二〇年の宋希景による交渉は「日朝通商交渉」としては、数に入れていない。あの交渉は「日本・李氏朝鮮・明」の三国間交渉だからである(李氏朝鮮国王・世宗も、この時は、「明の代弁者として」国書を作成している・【明へ行こう5】)。


 事実上、一四四三年が最後の「日朝通商交渉」となっている。この前後、日本と李氏朝鮮は二つの条約を締結していた。

①「孤草島釣魚禁約」(一四四一年):対馬の宗貞盛による、孤草島(巨文島)での漁業権継続を要請する条約。李氏朝鮮側の高得宗は、「漁獲量を一定にするなら」と応じた。

②癸亥条約(一四四三年):対馬領主の宗家と李氏朝鮮による「通商条約」。

 これによって、「日朝貿易」の土台は出来上がったも同然であり。これ以降は、“わざわざ、両国政府が交渉する必要性の高い案件が無くなった”のである。更に、一四五三年には、大内教弘が「李氏朝鮮との勘合貿易」を成立させている。

『朝鮮国賜大内殿通信右符 景泰四年七月造』(毛利博物館に現存する「通信符」)

“朝鮮国より、大内殿への通信符(通交証明の判子)の「右半分」 一四五三年七月”

「左半分」は李氏朝鮮が持ち、大内の船が来航した時、印影を照合する。注目すべきは『大内殿』という表記であろう。「大内教弘殿」とは限定していない。つまり、「大内殿だったら、教弘殿だけでなく、子孫の皆さんも大歓迎しますぞ」という意味だった。

 大内家と太宰府の支配を争う、少弐家は、悔しさのあまり激怒している。“貿易での特別待遇を大内家に独占された”からである。かくして、負けるものかと、少弐家や肥前の海賊達が日朝貿易に精を出し。そんなに儲かるのかと、大友家・島津家も便乗した。

大内家以外の連中には「図書(正方形の判子・こちらは「申請者の名前が彫られているので」“一代限り”しか使えない通商証明)」が与えられた。大内家へのひいきは誰の目にも明らかであった。だが、ともかくこれで、「両国政府が交渉しなくても勝手に諸勢力が、どんどん貿易を拡大していく」情勢が生まれたのである。


 また、「両国政府の交渉」は、案外実現が難しかった。なんせ、六百年前の時代である。今とは異なり、戦乱の起きやすい時代であった。李氏朝鮮が安定している時は、日本で騒動が起きていて(将軍の代替わり、政変など)。日本が安定している時は、李氏朝鮮で党派抗争が起きていた。両者、意欲はあっても、なかなか上手くいかなかった。


 そのちぐはぐ具合を紹介しよう。前段の海難事故が起きてしまった「第五回朝鮮通信使」の前の、第四回朝鮮通信使。これも。日本に到着はできたが、色々と大変であった。

 一四四三年二月、第四回朝鮮通信使の使節団が日本に到着した。

●正使:卞孝文・副使:尹仁甫・書状官:申叔舟

当時の日本の状況は極めて良くなかった。まず、一四四一年六月二十四日、将軍足利義教が嘉吉の変で横死している。一四四二年十一月七日、子の義勝が後を継いで征夷大将軍となったが、なんと“まだ九歳”であった。


 対馬で宗貞盛の歓待を受け、到着したのは赤間関(下関)。

『大内教弘、經到赤崎浦迎候』(世宗莊憲大王實錄)

“大内教弘が、赤崎浦を経て、迎えに来てくれた”

一行は、教弘に温かく迎えられ、豪華な食事を供された。卞孝文曰く。

『我殿下追念故大内之誠』

“我が国王殿下(世宗のこと)も、誠実な大内殿のことを、大事に思っておられる”

そこで、我らを派遣されたのだ。大内教弘は、使節団の言葉を喜び、謝意を示した。

 教弘は、使節団の到来を京に馳せ報じ。京へ発つ一行に、護衛の船四隻を付けた。


 ここまでは良かった。この後、一行は尾道(安芸国)に着いた。現地に護衛がいない。

『代官以無國王教書、不護送』

“現地の代官曰く、「国王(将軍)の御教書」が発行されないので、護衛役が送れないのです”

とまどう使節団に、現地の代官は、申し訳なさそうに説明した。

 そう、義教の後を継いだ義勝は九歳。政治文書などこしらえられる歳ではない。まして、ことは「外交問題」である。管領以下が、代筆してよい案件でもなかった。


 嫌な予感がしてきた。一行は無理やり兵庫に進んだ。またも、悪い報せが届いた。

『京管領及伊勢、皆無可否』

“(通訳尹仁始が京に先着しましたが、)管領畠山持国殿も政所伊勢殿も返事をくれません”

いよいよ、嫌な予感がしてきた。だが、弁明を重ねる幕府の代官は、続けた。

『國王年少、諸大臣擅權、以使臣支待、各有所費』

“国王(将軍)が年少なのです。諸大臣が権勢を振るい、(年少の将軍では外交命令の文書が出せず)、朝鮮通信使の使節を支える接待費が用意できないのです”

兵庫の代官は、ますます申し訳なさそうに。伊勢殿が国王(将軍)に張り付き、管領が政務を握るので。と、主が弱く臣下が強い、という意味のことを繰り返した。

 卞孝文らは、無理に兵庫まで来て、良かったと思った。尾道で正直に待っていたら、永遠に京まで辿り着けないところであった。


 結局、通訳尹仁始が入京し、大和守(飯尾貞連)に直談判したのが幸いした。貞連曰く。

『管領已議諸大臣、欲不接納也』

“管領(畠山殿)が既に諸大名と協議し、「今回はご遠慮いただこう」との意向でして”

通訳尹仁始は、答えた。

『淹雨赤間關・尾路、已逾旬月、而回報不到、乃來耳』

“下関から尾道に来るだけでも、日があったのに。返事を下さらないので、来ただけです”

飯尾貞連は回答に詰まった。まさか、“「外交権」は公家達との関係上、色々ややこしい”、“将軍の幼少時、自分達が勝手に触ったら、のちのちに(将軍義勝が成長した日に)、どんな責めを負わされるか分からないので、正直、対応するのも嫌なのだ”とも言えない。飯尾貞連は、苦悶の表情を浮かべながら、管領のもとへと向かって行った。

 貞連から報告を受けた管領畠山持国は、やむなく言った。

『業已來矣、不可拒之』

“使節団がここまで来られた以上、まさか拒む訳にも行くまい”

持国は、将軍足利義勝に、使節団到来を報告した。これで「使節団」を認めたことになる。

 さあ、困った。前回の使節団到来は一四三九年。将軍足利義教が、万事を差配した時代である。その頃、畠山持国は、いつ粛清されるかが恐くて、首をすくめるばかりであった(一四四一年、本当に左遷されている)。朝鮮通信使の饗応の礼儀作法など、知らない。前回の使節団到来時は、完全に蚊帳の外であった。左武衛(斯波殿)に前例を集めさせよ。管領は、涙ながらに、指示を発した。


 先例の集積と分析が終わった頃、使節団は入京を許された。いよいよ、国書到来の儀式が行われる。国書到来の儀式では、国王(将軍)は、殿上に座る。李氏朝鮮側の卞孝文は、奉書を捧げ外で跪き、これを日本側の僧が跪いて受けた。そして、国王(将軍)の前に置く。卞孝文らは、外に。軍官以下は庭に立ち、みなが外交儀礼に従い、四回ほど拝した。

 そして、卞孝文は発言した。

『兩國隔海、我殿下、聞殿下嗣位、遺臣等來賀』

“両国は海を隔てるが、我が朝鮮国王は、殿下が後を継がれたと聞き、臣らを遣わした”

これに対し、日本側は建物の中から答える。「国王(将軍)は年少だが、宜しく頼みます」。卞孝文らは会場を後にした。代わりに、幕臣・諸大名ら数百名が庭に入り、庭に座って頭を下げる。そして口々に言う。「群臣、新国王(将軍)を賀する。隣国と通交を始めよう」。

 かくして、国書の受け渡しの儀は、滞りなく行われた。


 続いて、卞孝文は相国寺に着いた。ここで、国王(将軍)との対面が行われる。国王(将軍)が建物の中に入っていく。神位が設けられ、儀式にふさわしい絵が掛けられている。

 と、大和守(飯尾貞連)が卞孝文に近付いてきて、申し訳なさそうに言った。

『祭禮可従貴國之禮、國王年少不能參』

“対面なのですが、貴国の礼に従って行いたいのはやまやまですが、国王(将軍)は幼少(九歳)なので、参加できませぬ”

なっ。とまどう卞孝文に、飯尾貞連は事務的に続けた。

『管領以下大臣、坐以陪祭、國王及母妃、皆潜往觀焉』

“管領以下大臣が、参列し。国王(将軍)と母君(正親町三条尹子)は影で見ております”

『祭畢、與管領相會』

“(というわけで)対面の儀は、(将軍とではなく)管領とやって下され”

余りの発言に、卞孝文は一瞬反応ができなかった。これは何かの罠だろうか。

貞連は続ける。

『國王年少、管領實權、王坐當南向、使臣在東』

“なにぶん国王(将軍)が年少でして。管領が実権を握っておられます。管領が「南」を向いて座りますので、使節団殿は、「東」にお座り下され”

ここまで来て、卞孝文は自分を取り戻した。罠だ。こいつら、“分かってない振りをして、罠を仕掛けてきている”。何が、先例を調べるから入京を待ってくれだ。とことん調べて、十分に理解しているではないか。我々が無理やり京までやって来たのを、根に持っているのではないか。卞孝文の頭脳が、急速に冷静さを取り戻した。


 ここで解説しよう。「管領が南を向いて座った場合」である。「南を向いて座ること」を「南面」という。本来、皇帝や国王(国家元首)にのみ許される座り方である。管領が南を向いて座った場合、「管領(国王の一家臣に過ぎない陪臣)>朝鮮国王の使者(卞孝文)」になる。これは、日本の実態を踏まえると、より辛辣なことになる。

●「院や帝>日本国王(将軍)>管領>朝鮮国王(の使者)」

一体、朝鮮国王の使者は“どれだけ扱いが低いのだ”という話になる。卞孝文も日本に来て、この構造を理解している。卞孝文は有無を言わさず、反論した。

『客東主西禮也』

“客である我が国が「東」に座り、日本側の管領が「西」に座ってはいかがか”

だが、飯尾貞連は切り返した。

『然則管領在東、使臣在西可也』

“しからば、管領が「東」に座り、使節団殿は「西」に座る、ではどうか”

この男。上役の「管領」とやらとの板挟みに苦しむ中間職の振りをして、能吏だ。

 再び解説しよう。国際儀礼の世界では、「東>西」なのである。卞孝文は、日本側の下調べが、万全であることを察した。

『臣示以不可之意』

“臣(卞孝文)は、そんなことはできないと答えました”

すると、飯尾貞連は表情を和らげ、申し訳なさそうに言った。

『地勢如此、不可易也』

“単に日本が東にあり、貴国が西にあるからそうするに過ぎませぬ。どうか、難しくは考えないで下され”

なるほど、と卞孝文は思った。それならば、我が主君・世宗にも言い訳が立つ。少なくとも、「管領が南面する」案は却下できたのだ。「単に両国の地図上の位置を踏まえ、東と西に座ったのなら、両国が対等の友好国であるという理屈が成り立つ」。かくして、両国の能吏だからできる、短時間の緊迫感ある遣り取りはつつがなく終わった。


 まもなく、卞孝文は寺に入った。管領は「東」に座っている。おい、大和守殿大和守殿。

『管領何不起』

“管領はなぜ、起立してくれんのだ”

飯尾貞連が慌てて、管領のもとに向かって行く。その後ろ姿に、先程の「日本側はよく国際儀礼を研究して罠を仕掛けてきたと考えるのは、考えすぎだったのかもしれない」と、卞孝文は思った。貞連から耳打ちされた畠山持国は、慌てて立ち上がった。

 卞孝文と管領。両者は、東西に相向き合い、座った。下孝文は聞いた。

『聘問古今通義、今遣回禮使否』

“古今の先例に照らし、今回の使節に対する、返事の使節はどうされますか”

飯尾貞連は、「先例もありませんし、送らぬということで」と答えた。卞孝文が国際儀礼について詳しく説明すると、貞連は「諸大臣とも協議したのです。国書を受けるだけにしよう、となりました」と答えた。卞孝文が、それはいかんでしょうと繰り返すと。管領も飯尾貞連も、「先例がないのです」と繰り返し、しまいには内情を説明し始めた。

『國王年少、不能裁決、我等獨專國事、不可以無例之事』

“国王(将軍)が年少なのです。裁決もできませぬ。我らが、臣下の身で、独断で国事を動かすわけにも参りませぬ。それこそ、先例のないことになってしまいます”

どこも大変なのだな。卞孝文は察した。管領や飯尾貞連らの苦衷が分かり、遂に日本側の僧達から、国王(将軍)の返書と礼品を受け取る事で、返礼とすることを承諾した。


 こうして、第四回朝鮮通信使の日本との交渉は終わった。帰路、赤間関(下関)にて、僧光厳(返書・礼品を行う日本側の僧)が使節団を追いかけて来て、一行に伝えた。

『先國王同母弟即位、年方九歳』

“(将軍足利義勝も亡くなり、)弟(義政、当時は「義成」)が後を継ぎました。九歳です”

事実である。一四四三年八月十六日、足利義勝は夭折している。新国王(将軍)登場の祝いがすんだと思ったら、また別の国王(将軍)になったのである。

 山口。大内教弘に再会した卞孝文らは、今次通信使での大内家の対応を謝した。この席で教弘は、壱岐の倭寇のもとに、男女数名が捕まっている噂を卞孝文に伝えた。驚いた卞孝文は教弘らに協力を求め、遂に博多でそれが「男女七名」だと掴み、副使尹仁甫・書状官申叔舟らの働きで、七名を保護することに成功した。卞孝文は七名を連れて帰国し。十月十三日、今次通信使の報告を、主君世宗に行った。それにしても、複雑怪奇な隣国日本。書状官・申叔舟はこの旅で、日本研究を決意した。その成果が『海東諸国紀』である。

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