【脱線七・“本音は見せぬ”足利将軍】
一三四〇年三月、常陸では北畠親房が、駒城での幕府軍との攻防を優位に進めていた。幕府軍苦戦。十四日、将軍足利尊氏は、反撃として紀伊熊野水軍・塩崎氏への取込工作を始めた。まさに世は動乱の真っ只中であった。そんなある日、
『十八日午剋ニ将軍御前変現物アリ女人也』(法隆寺記録)
“十八日午後、将軍(足利尊氏)の前に、突如、女が現れた”
この女。一体、どこから御所に侵入した。尊氏の側近達は動揺した。
『四門ノ武士取トスルホトニ』
“御所の四門を警固していた武士達が、女を捕えようとした”
だが、女は、思いのほか敏捷であった。
『虚空ヘ入テ不見』
“女は空中高く跳躍し、姿見えなくなった”
忍びか。呆然とする側近達を余所に、尊氏はそう判断した。
『同廿一日将軍御所ニ紫幡二流上テ見ケリ』
“二十一日、将軍の御所の前に、「紫の旗」二流が、突如掲げられた”
天下が二つに割れた、と嘲っている。
『上下諸人走集ケリ、ヤカタ不見、ウセニケリ』
“御所に詰める者達が、旗の下に走ったところ、旗は姿を消した”
親房め。こちらの動きは筒抜けだと、脅してきたか。以来、尊氏は忍びへの警戒を強めた。
足利将軍は天下の柱石。その一挙手一投足は、天下の耳目を集める。尊氏は決意した。
―全ての忍びは防げぬ。今後、「忍びの監視を前提に」振る舞う―
一三四九年八月九日、「観応の擾乱」前夜。京には、弟直義と対立する高師泰の軍勢が入り、都は緊張に包まれた。十日、尊氏は、“気にする素振りも見せず”丹波篠村八幡宮に参詣し、夜、工事が完成した土御門東洞院邸(新しい将軍邸)に入った。十二日、直義派と高師直派諸将の睨みあいを余所に、新将軍邸で“弓場始を開催した”。将軍は何をお考えなのだ。弓場始を指揮する小侍所頭人・上杉朝房は、気が気でない。弓場始が終わった後、朝房は慌てて直義のもとに向かった。翌十三日。尊氏は“打って変わって”、直義を将軍邸に避難させた。“本音は見せぬ”。「この政略」は足利将軍のお家芸となった。
尊氏の子義詮は、「公家の姫への忍び通いを続けた」。孫の義満は、藤原慶子(『北向殿』、義持と義教の母)を暗殺対象から外すため、正室日野業子を重んじた。一三九九年五月八日、慶子が四十二歳で亡くなった時、義満は「赤松邸で『大飲み』していた」(迎陽記)。東坊城秀長は『御悲嘆なきか』“悲しくないのか”と唖然としている。だが、慶子の娘入江殿は「一三九七年生まれ」である。慶子には「従一位が贈られた」。正室死亡時と同じである。“ほとぼりが冷めた”一四〇六年、義満は、慶子菩提料所に「美濃座倉郷を寄進した」。




