【越前統一 ―和田の合戦―】
一四五九年夏、畠山の家督継承は政長(弥二郎)優勢に。越前は、甲斐常治(斯波家家老、越前・遠江守護代)・朝倉孝景(越前有力者)派が優勢となった。
七月二十三日、越前河口庄の南隣・長崎に退いた堀江利真(斯波義敏派)は、ここで陣を固め、河口庄の村十郷に年貢を催促した。堀江も、これが最後の戦いになると気付いていたのだろう。既に大勢は決した。今や、堀江は、越前に無理を強いる疫病神であった。
八月、北庄に陣を布く朝倉孝景は、堀江との決戦に臨んだ。十一日暮れ、長講堂領和田庄で両軍は激突した。和田庄は一条乗城の北6㎞に位置し、背後に永平寺を抱える。足羽郡南の要所であった。
●朝倉軍:朝倉孝景、本庄・細呂宜(堀江家の庶流)
●堀江軍:堀江利真、鳥羽将景・朝倉景契・阿波賀良景(朝倉家の庶流)、平泉寺・豊原寺
『浪人また出張候て即ち合戦候』(朝倉家記)
“堀江勢が和田に進出してきたので、合戦となった”
十八日、大和興福寺の尋尊のもとに、報告が届いた。
『討死の輩は堀江石見兄弟父子五人・朝倉豊後守父子・同新蔵人・同掃部・平泉寺大性院・豊原寺成舜坊』(大乗院寺社雑記)
“堀江利真一族五名、鳥羽将景父子・阿波賀良景・朝倉景契、平泉寺・豊原寺院長ら討死”
『その外雑兵その数を知らず』
“その他、雑兵、数知らず”
朝倉家が一四八七年に作成した覚書によると、七百余名を討ち取ったという(朝倉家記)。堀江軍壊滅。朝倉孝景の大勝利であった。
『本庄・細呂宜・朝倉孫衛門、皆以て薄手と云々』
“本庄・細呂宜、朝倉孝景殿も(手傷を負いましたが、)皆薄手とのこと”
孝景は、この合戦後、和田庄の中心である和田八幡宮を修復し、和田邑一千貫(1億~2億円)を寄進した。そして、朝夕八幡宮を拝したと伝わる。孝景にとって、「和田の合戦」は、その後の人生を決定付ける、まさに転換点となった。
というのも、翌十九日夜、京では家老・甲斐常治が病死するからである。甲斐家の家督は、越前に出陣する嫡子敏光ではなく、京にいた孫の千菊丸(五歳)に安堵された。甲斐家に対する、将軍足利義政と管領細川勝元の抑え込みは露骨であった。常治の妹は、政所・伊勢貞親の妾である。甲斐家の転末には、伊勢家の台頭を嫌う管領の思惑が影響したのだろう。孝景の旧主・斯波義敏は、この年の内に、大内を頼って周防に逃れた。
かくして、孝景の上にいた旧主と家老は、舞台を去った。越前を統治できる者は孝景を置いて他にいなくなったのである。以来、朝倉孝景は越前を平らげ、『三十余年堅固に持ち候』(上杉定正状)。と、一四九〇年、扇谷上杉定正は子の朝良に語っている。
というわけで、「斯波家の内訌」に一段落つきました。
斯波家は三管領の筆頭。足利将軍家に万一ある時は、それに代わることも可能と考えられていました。
●初代:斯波高経・・・南北朝時代に活躍。その時代は、「足利高経」と名乗った。
新田義貞を越前で戦死に追い込み、「観応の擾乱」では足利直義派の大黒柱。
斯波・山名・上杉・桃井らで直義派を構成した。
尊氏晩年の要請で、ようやく室町幕府に帰参。
●二代:斯波義将・・・二代足利義詮の時代に、「足利家執事(一説には、”初代管領”とも)」となる。
三代足利義満の時代には、細川頼之派(細川・赤松)に対し、
斯波義将派(斯波・土岐・山名ら)を形成。頼之とはライバル関係。
だが、反主流派というわけではなく、義満を支える派閥の一大旗頭であった。
晩年、義満が亡くなった時、「四代足利義持による政権維持」で幕閣を纏める。
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この斯波義将が”他にも色々と”手柄を立てすぎたため(手柄の内容は…ゲフンゲフン)、斯波家は、本当に「足利将軍家に取って代わってもおかしくない家」となります。
それを警戒したのが、六代足利義教。斯波家の当主は、夭折が相次ぎ、遂に内紛が勃発しました。
≪内紛前の斯波家≫
●斯波家当主(越前・尾張・遠江守護)-甲斐(越前・遠江守護代)、朝倉(越前有族)、織田(尾張守護代)
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≪内紛後の斯波家≫
●斯波家当主(守護ではあるが、”お飾り”)-甲斐(遠江を支配、越前にも影響)朝倉(越前を実効支配)・織田(尾張守護代)
→朝倉家の台頭が著しくなったわけですね。
これは室町幕府将軍足利義政から見ると、「畿内を(越前と尾張・遠江の北東・南東から)圧迫できる斯波家が本格的な分裂状態に突入してくれたぞ。しめしめ」という状態に持ち込めたわけです。
(もう一つは、「(足利家の財政を支える)五山所領が多い北陸地方が、朝倉家の越前支配実現により、これも斯波家の圧迫を受けにくくなったぞ。しめしめ」という状態に持ち込めたわけです)
斯波家の内訌で、足利義政は「初代将軍足利尊氏以来の、目の上のタンコブを取り除けた」わけで。
ここでも将軍義政の策士ぶりが、伺えます。
さて、義政の「乱世への回答その1」は、
「全国支配(関東征伐)は諦めるが、”西は大内領国~東は越後・信濃・駿河”までの領域は徹底的に固める。その際、足利将軍家に取って代り得る奴らは、徹底的に分裂・弱体化させる」というものでした。
具体的には、「斯波家が分裂弱体化」に持ち込まれ、「血の気の多い山名宗全も、しばらく但馬に隠棲させ。その間に、山名のライバル赤松家を再興させたうえで、ようやく上洛を許す(山名も弱体化)」でした。要するに、「支配を継続すると決意した領域に対しては、強力な優位体制を築くことに注力する政略・戦略に転換した」わけです(さんざん翻弄された斯波義敏や、畠山義就に肩入れして亡くなった今参局は、ある意味、その犠牲者とも言えます)。
一方で、足利将軍家に取って役に立つと判断した、管領細川勝元(政治担当)と政所伊勢貞親(財務担当)については、優遇しています。これも、「どの勢力を優遇することが、長期的に見て、支配領域安定に資するかを厳選した結果となります(血の気の多い山名宗全や畠山義就は冷遇)」。
●「支配すべき領域の確定」⇒「支配体制を支えるべき有力者(細川家・伊勢家)の選定」⇒「冷遇すると決めた勢力の分裂弱体化推進(斯波家・山名家・畠山家)」
以上が、義政の出した、「乱世への処方箋(政略編)1」ということになります。
このあたりを踏まえると、この後も続く、”喰えない将軍・足利義政”の腹芸ぶりが、
様々な場面で楽しんでいただけると思います(さすが、複雑怪奇な足利尊氏の子孫!)。
逆に言うと、足利歴代将軍の本領は、この「複雑怪奇な喰えなさ加減」にあるわけで、
足利尊氏~義政・義尚までの将軍には、多かれ少なかれ、それがありました。
それを踏まえると、戦国期の足利将軍は足利義輝といい、足利義昭といい。
何というか、
「真正面からの直球しか投げない。凡そ先祖の有能な足利将軍から見ると、情けない将軍」に見えてしまう面がなきにしもあらずで、思うに、義輝も義昭も、京や幕府政界から離れていた期間が長すぎて。
「将軍としての練度が低かったのではないか」と思います。
(尊氏なら、屋敷を三好三人衆に囲まれたくらいで、切り死にするような下手は打ちませんし。現に、高師直らに囲まれても、自分に都合の良い政治決着を実現しているし。義満・義持・義政なら、織田信長が現れても、生涯うまく操縦し続けて、信長が五十代くらいで自然死するまで乗り切ったと思います)
足利義政は、本作最初の登場時には、新年参賀の儀式もまともに行えない、”駄目な少年室町殿”として現れましたが(【文安の日常】)、様々な失敗や試行錯誤を重ねる中、自分に可能なことと、無理なことを悟り。将軍として、諸大名や民に対してできることを身に付けていきました。万能の才人でもなく、先祖足利尊氏のような英雄でもないが、統治者として成長したわけです。
人は成長しなければなりません。




