【小臣を討て】
一四五九年五月二十三日、斯波義敏の敦賀城攻め敗退の報に、越前の堀江利真は館に火を付けて河口庄を退去した。二十五日、加賀・能登・越中の軍勢が東から越前河口庄に乱入した。西からは甲斐敏光(斯波家家老・甲斐常治の子)が二十七日、越前府中に進軍した。六月一日、朝倉孝景も北庄に進出した。
―斯波義敏と越前の堀江一党。それと畠山家の騒動―
これらに、一気にかたを付ける。将軍足利義政は、時機の到来を悟った。
『予小臣に命ずるに関右の征を以てす。何ぞ朝敵を外にして家讎を内にせんや』(碧山日録)
“予は武衛(斯波義敏)に関東征伐を命じた。何故、朝敵を討たず、家の内紛を続ける”
『甚だ無頼なり。小臣の族を夷滅すべし』
“言語道断である。武衛の一族を滅ぼせ”
この時期、義政は苛烈である。乳母の覚悟の切腹に、腹を括ったのだろうか。斯波義敏から、越前・尾張・遠江守護職を取り上げ、家督を嫡子松王丸(義寛)に変えた。
『公方様より諸大名に仰せ付けられ、御勢を以て御沙汰の間、無為に属し候』(南部家文書)
“公方様が諸大名に仰せ付けられたおかげで、その勢いのまま、越前は収まりました”
『甲斐方始め皆満足に候』
“甲斐殿はじめ、皆が満足しております”
とは、二宮信濃守に陸奥八戸・南部薩摩入道からの馬調達を命じられた僧水玉の言である。
七月、畠山弥三郎が赦免され、上洛した。これで、長年に亘り弥三郎と家督を争う兄の畠山義就が立場を失った。一四五七年九月、義就は、南山城で管領細川勝元派国人と衝突する騒動を起こしている(【土一揆という策】)。その時、義就は「上意」を詐称して木津を攻撃していた。京の膝元で軍事行動をする奴ならいらぬ。その直後、将軍足利義政は、義就から筒井家旧領を召し上げ、興福寺に寄贈した。そして、一四五九年一月、義就に肩入れする乳母今参局が切腹した。もはや遠慮の必要はない。三月、勝元のとりなしで筒井家・箸尾家に所領が返還され、五月、成身院光宣・筒井・箸尾が赦免となっていた。
●畠山義就派:今参局(切腹)、興福寺別当尋尊(三十歳)・経覚(興福寺大乗院派・六十四歳、越前長禄合戦で所領直務を認め懐柔)、越智家栄・古市(経覚をおさえたので大丈夫)
●管領細川勝元派:畠山弥三郎・畠山弥二郎(政長、弟)、成身院光宣(大和筒井派の指導者の僧、経覚とも戦ったが、既に和解済み)、筒井順永・箸尾宗信(旧領を返還)
一連の政略で、畠山義就派は崩壊したも同然だった。越前長禄合戦で関東遠征こそ日延べされたが、越前混乱に困る興福寺大乗院派をまんまと丸め込んだ訳で。将軍義政は、転んでもただでは起きない。この特長が、早くも出ていた。
解せぬことに、弥三郎は上洛直後に亡くなっている。一服盛られたのだろうか。やむなく、光宣は、弟の弥二郎(政長)を擁立した(大乗院日記目録)。




