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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【喰えぬ将軍】

一四五九年春、「長禄・寛正の大飢饉」の日々は続いていた。下総国本土寺には、十五世紀の過去帳(お寺で弔われた人々の記録)が残されている。それを読むと、飢饉が起きた年の“実態”が明らかになるわけで。飢饉の年は、「春」に最も人が死ぬことが判明している。前年からの蓄えである食糧が尽き、初夏の麦の収穫が始まるまでの時期だからである。

この年四月、将軍足利義政が「花の御所」再建の大工事を始め、京に流れた日雇人夫らに飯の種を与えたのは、全く正しいことであった。諸大名らも、五条河原に仮屋を建て、飢民らに食を施す。天龍寺・相国寺といった、心ある大寺院も、施行を引いた。室町時代の将軍・諸大名・貴人らは、民の苦しみを自らの問題と考え、行動したのである。

室町御所の再建。花の御所こそ、祖父義満・父義教が政務を行ないし場所である。正門は室町通りに面し、東西一町・南北一町半をほこる。父と兄義勝の急死で不吉とされたが。

―関係ない―

どうせなら大工事を行え。再建の大工事は、一四六四年まで行なわれ、新殿や泉水の造営が行われた(長禄寛正記)。賀茂川には捨てられた死体が積み重なり、屍臭が洛中を覆う。そんな今こそ、仕事である。民に飯の種を与えよ。一四六二年には、母日野重子の高倉御所造営も本格化させる。義政自身は、諸大名邸や寺社への訪問を増やした。饗応と莫大な品の遣り取りが行われる「将軍御成り」で、日雇人夫の仕事を作り、経済を活性化するのが目的だった。


 歴史の真実には、いつも不思議がある。ここで、京で発掘される陶磁器の数に触れよう。一四〇〇年代前半、京で発掘される陶磁器は数の“低迷”を続ける。これは、「応永の大飢饉」で、将軍足利義持が“緊縮財政”を採り、京と周辺の流通が停滞したからである。

ところが、「長禄・寛正の大飢饉」が起きた一四五〇・六〇年代、発掘される陶磁器の数は“増え続ける”。数にして、一四〇〇年代前半の“二倍以上”である。しかも“種類が増えている”。京の陶磁器は、一四四一年「嘉吉の変」の赤松家没落に伴い、「東播磨産」陶磁器が一四五〇年頃壊滅状態となり、「備前焼」一強となったが。一四六〇・七〇年代、応仁の乱にもめげず、“「信楽焼(近江産)」が流通し始め、その量を増やしている”。

つまり、将軍足利義政の、経済優先の政治方針は“大成功を続けていた”ことが、物云わぬ陶磁器の発掘によって、動かぬ事実として明らかにされている。何と、その傾向は、「応仁の乱」が起きた約十年間も“変わらず続く”のである。足利義政という将軍が、(普段、優柔不断・無策の振りを装っているだけの、)いかに喰えぬ男かを示すデータである


 側に張り付いていた今参局を見切り、政所・伊勢貞親の抜擢を進めるや、義政は急速に本領を発揮した。五月、筒井順永・箸尾宗信・成身院光宣(興福寺一条院の有力者、筒井家の縁)が赦免された。今参局と懇意だった畠山義就は、一気に立場を危うくした。御所様に何が起きたのだ。更に、越前でも、近江から兵船五十艘の大軍を入れて敦賀城奪回に動いた斯波義敏が、十一日大風で兵八百を失い、十三日、朝倉孝景ら甲斐勢に撃退された。


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