【仕事を作れ―上医は国を医す―】
一四五九年一月、今参局の死後、将軍足利義政の近くは日野重子(義政の母)と富子の周辺が優位に立ち、日野家と親しい政所・伊勢貞親が急速に発言力を増した。
春頃、いよいよ天侯の異変が悪化した。一四六五年まで続く大飢饉は、「長禄・寛正の大飢饉」と呼ばれる(一四六一年から一四六二年が「寛正の大飢饉」)。畿内近国は日照り・旱魃・寒冷・洪水・虫害で大凶作となり、大量の流民と餓死者が発生した。
諸国の民は、年貢に窮し、「公方役」(守護役、①守護所等で労役②京に物資を運び、その後、人足として運悪ければ二十日以上労役③その他、伊勢役や河内役、特定荘の夏の瓜持夫・年末の炭持夫)に耐えられなくなった。当時、これらの負担は代銭納が進む。庄の民は、仲間と大勢で労役にいくのではなく、一人が銭を持って出向いた。実際の労役は、京や諸都市に住む日雇人夫が行った。
この経済構造があるため、飢饉に苦しむ民は、次の対応をした。
①まず、損免要求をする(「長禄合戦」で越前・坂北郡河口庄の民がしたような、興福寺に働き掛けて、年貢の事務を「守護代→興福寺」にしたうえで、越前まで来た興福寺の使者には「飢饉で全額は出せません(間に守護代入らないならそれでも大丈夫だろ)」と泣き落し、年貢を一部しか納めない戦法。一四二〇年、「応永の大飢饉」で、播磨国矢野荘の民などは、東寺に泣き落し戦法を二ヶ月以上続け、年貢を50%免除されている)
②駄目なら、「みんなで村から逃散して都市に流れ、一時、日雇人夫(日様物)として生きる」(一四五〇年代、お米の価格は、『播磨矢野荘:京=600文:1000文』だった。米を作る矢野荘の米価は600~650文で安定したが、京の米価はすぐ高騰するので、利鞘を稼ぐ商人達は、飢饉の際こそ稼ぎ時であった。京には、“米の運搬”の仕事があったのである)
民はたくましく、簡単には死なない。かくして、大飢饉が起こると、京は半流民の日雇労働者であふれた。「二十万人」を数える大都市京の頭痛であった。
二月二十一日、越前東の阿波賀城戸口(一乗谷付近)で、朝倉教景(孝景の祖父・八十歳、甲斐常治派)が、堀江勢(朝倉庶流阿波賀氏ら、斯波義敏派)を撃退した。堀江派の勢いがようやく止まった。越前の西の玄関口・敦賀城の甲斐派は、朝倉孝景らの攻勢で、身動きが取れなくなっている。甲斐勢別働隊は、中旬に、中郡への進出に成功していた。
勝機である。義政は、季瓊真蘂による堀江派への和睦工作が頓挫するや、甲斐派への肩入れを明確にした。甲斐常治が、伊勢貞親を通じて「主君斯波義敏の家督不承認と関東出兵拒否の不忠」を義政に訴え。三月十七日、義政は武田信賢(若狭)・畠山義忠(能登)・六角政堯(南近江)・京極持清(北近江)、越前・加賀・越中の諸勢力に、甲斐への合力を命じる奉書を下した。甲斐派はたちまち勢い付き、敦賀城を陥落させた。
四月、義政は、座右の銘として、次の文章を書かせた。『上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す』京の民には仕事を。この月、義政は花の御所再建工事を本格化した。




