【富子と義政2-御今の禍―】
一四五九年一月九日、日野富子が将軍足利義政の子を出産した。富子二十歳。当時としては、あまり若くない年齢での出産である。戦国時代、興福寺別当の実暁曰く。
『男女、子を生む事、女は十二より生みはじめて四十八才まで生む』(習見聴諺集)
“男女が子を生むことについて。女は十二歳から生みはじめ、四十八歳まで生む”
富子は一四五五年に十六歳で嫁いだのだから、すぐ生まれても良いものである。思うに、同年関東で古河公方足利成氏が自立し、騒ぎでそれどころではなかったようだ。あるいは、まずは将軍御台所としてふさわしい人物になるのが先決、ということになったか。
初代将軍足利尊氏や副将軍足利直義は、母上杉清子三十六歳・三十八歳の時の子である。義政にしても、日野重子が二十六歳の時の子である。足利将軍家は、(当時でいえば)高齢の分別ある女性による出産を望むという家風だったようだ(尊氏の母上杉清子は、高師直が畿内で北畠顕家を討った時、自家に丁稚奉公する子供が手柄をあげたかのような視線で、これを褒める書状を残している。その存命中、直義と師直は、衝突ができなかった。そういえば、尊氏の妻赤橋登子も、二代義詮の時代、東の土岐・西の赤松から慕われた)。
富子の生んだ子は若君であった。だが、死産だった。大和の経覚曰く。
『若君腹中ニテ死去せらる』(経覚私要鈔)
“若君は、(御台の)お腹の中で、亡くなってしまった”
この時代、死産は少なくなく。こうした出産には、産褥死(赤ん坊と母親両方の死)の危険が伴った。幸い、富子の命に、別条はなかったが。数日間は、動ける状態でなかった。
このことから、次の噂の出所は、富子ではない。
『今度御台御産事ニ、彼の仁の調伏』
“今度の御台の出産時、今参局が(富子を呪う)調伏を行った”
おそらくは、義政母・日野重子(富子の大叔母)とその周辺が出所であろう。
『女房、御今参と号す、此の五、六ヶ年、天下の万事、併しながら此の身上に在る』
“「御今参」という女房が(将軍義政を操って)、この五六年、天下の万事を動かしている”
『権過於大夫人、公卿大臣、競賂遺局中』(大館持房行状)
“(今参局の)権勢は、大夫人様(日野重子)を凌ぎ、都の富貴は、競って賄賂を送った”
こうした中、富子の死産に面目を失う験者達をよそに、御所内には「今参局呪詛」の噂が流れ、広まった。『大館持房行状』は、『児女口舌』(女達が口々に)とそれを記す。
やがて、比叡山から密法者が召され、市中の未婚の少女が連れて来られた。密法者の術で、半無意識となった少女は、『某為蠱、某為詛』(呪詛が行われた)と答えた。
『相公年尚少、信於女言、今参局坐』
義政は、御今に見切りをつけた。従兄妹の大館持房(真面目人間で、日頃局とは疎遠)が義政を諌める中、今参局は、侍所に捕えられ、十四日近江沖島に遠流となった。




