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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【富子と義政3―大館の死義―】

大館は、上野国新田荘大館が発生の家である。新田の一族として興隆した。

『新田世良田有富民、高時貸銭六千貫、輸之以五日為期』(大館持房行状)

“北条高時が、新田世良田の富民に、銭六千貫(6~12億)を五日で出せと言ってきた”

鎌倉幕府倒壊時、多額の軍資金を求める高時に怒り、新田義貞と倒幕に立ちあがった。

『五月十九日、聞切通已破、敵入鎌倉、率士卒百余人、馳而直入』

“一三三三年五月十九日(十八日?)、大館宗氏は切通しを破り、士卒百と鎌倉に突入した”

宗氏は稲瀬川で北条勢に討たれたが、他に先んじた鎌倉突入で、大館は武名を高めた。


一三四〇年、子の氏明は、伊予・世田城で細川頼春(頼之の父)勢七千余騎と闘った。八月、四方から城を囲む細川勢に氏明は引かず。九月三日早朝、氏明は十七人を率いて世田城を打って出た。壁門が開かれ、氏明ら十八名が、城を囲む軍勢に突撃していく。

『近壁者五百余人、皆陥崖下、於是氏明与十七騎者、同時自殺』

“城壁の近くにいた五百余人を、崖下に落した。氏明ら十七騎は、ここに自決した”

氏明は、敵と差し違えたとも、燃え上がる城壁で自焼したともいう。起兵八年。数十余戦。

『卒守節死義、可謂不辱父命』

“大館家の者達は「死義」を守り、父宗氏の武名を護ったのである”

いつしか、大館の死義は、武門の誉れとなった。


 後年、佐々木導誉が、氏明の子義冬が密かに九州に渡ったことを独り掴んだ。導誉曰く。

『氏明長子曰義冬、聞在民間、受将軍命以召之、不然有後患乎』

“氏明の長子義冬が在野におります。将軍の命で召さねば、後日の災いとなります”

九州に放置はできない。将軍足利尊氏はこれを許し、義冬を将軍近臣とした。導誉も娘を義冬に嫁がせ、近江草野庄を譲った。

 以来、大館の当主は、足利家の二引両を家紋とすることを許され、歴代将軍から偏名を賜った。これらは、義冬の子氏信の活躍あってこそ、認められた。

『一日天山遊東山若王寺、寺後山嶮、攀蘿而上』

“一日、義満公は東山若王寺に出掛けた。寺の後ろの山は険しく、よじ登って上に行った”

義満は、このような時、人を試す。

『天山騎馬馳下』

“義満公は騎馬で駆け下り始めた”

果たして、大館の死義とやらを、氏信は受け継いでいるのか。

『氏信亦従馳』

“氏信もまた、馬で駆け始めた”

義満は大喜びし、氏信に腰刀をとらせた。

一三九九年、応永の乱。義満は氏信を一軍の将に抜擢した。氏信は丹波八田で山名氏清を破り、奉公衆第五番頭とされた。氏信の子は、「満信」(足利義「満」から)の名を賜った。

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