【朝倉孝景―真の英物―】
一四二八年四月十九日、越前の有族・朝倉家は英児を得た。通称、小太郎。朝倉家景の長男孝景である。曹洞宗・建仁寺の月舟和尚によると、元服の頃から能弁で、人を惹きつけたという。将軍足利義教は、少年孝景を一目見て、こう評した。
『真の英物』(月舟和尚語録)
孝景の主家である斯波家は、三管領の筆頭を誇る家だったが、当主の死が相次いだ。
●斯波義淳(一四三三年、関東融和派管領で義教と対立、三十八歳)―義豊(一四三二年、十八歳)…義郷(義淳異母弟、一四三六年落馬、二十七歳)―義健(一四五二年、十八歳)
家格の高すぎる斯波家は足利将軍に取って代わり得る。義持死後、籤引きで将軍となった義教に睨まれた斯波家当主の運命は、苛酷であった。一体、何人が自然死だったのやら。
朝倉家が、重臣甲斐(越前遠江守護代)・織田(尾張守護代)に次ぐ発言権を得たのは、当主の相次ぐ死で斯波家中が分裂し、足利将軍が内心喜んだからに他ならない。すなわち、甲斐・織田・朝倉は、斯波家を程良く支えることと、当主の抑え役を期待されていた。
成長した孝景は、円渓真成(叔父鳥羽将景の娘)を正室とし、一四四九年氏景が生まれた。一四五七年、京の自邸に歌人正徹を招いて歌会を開いている(草根集)。この記録から、当時『日下部敏景』と名乗り、京にいたことが分かる。法名「英林」。管領細川勝元と深く繋がっていたと伝わる。
十一月四日、土一揆が退いた直後の京で、将軍足利義政の怒りを買って東光寺に籠居する斯波義敏は、銭に窮したか家臣四十余人を土倉田上邸に押し入らせた。これを諫止する斯波家・家老甲斐常治は、義政から討伐の上意を得た。この時、朝倉孝景は、山名教豊(宗全に代わって山名当主)・織田敏広(同じ斯波家臣、尾張守護代)と共に、狼藉者三十六名を討った。その中には、堀江利真(越前有力者)の子二人・島田・由宇らが含まれた。
一四五八年夏、義政は本格的な関東征伐を目論んでいた。だが、その意に反し、斯波家(越前・尾張・遠江守護)は分裂を深めていた。一四五二年の義健夭折が尾を引いていたのである。家中は、新当主・斯波義敏派と家宰・甲斐常治派に分裂していた。
両派は、共に関東派兵に消極的で、義敏は興福寺東北院俊円(義政伯父)に、何度も出兵免除の嘆願書を送っている。しかも、七月、畿内の北壁・越前で、両派は遂に衝突した。
●斯波義敏(新当主)派:斯波持種(父、斯波一門、息子義敏の擁立に成功)・越前国人
●甲斐常治(将久、家老、越前・遠江守護代)派:朝倉孝景
当時、越前は大国である(一四六七年推計:四十七万石、兵力一万千)。推計人口・GDPを勘案した限り、兵力が一万を超える国は、陸奥(二万九千)・出羽(一万五千)・常陸(一万三千)・武蔵(一万四千)・近江(一万四千)・美濃(一万)のみ。うち、奥羽は分裂状態。常陸・武蔵は古河公方と上杉が衝突中。近江は京極・六角・比叡山が分掌。である以上、畿内の合戦時、対応できる大国は越前と美濃しか存在しなかった。その越前が発火した。
ようやく、戦国大名の先駆け、朝倉孝景の登場です。
戦国時代が近付いてきました。日本各地の「オラの国の殿様」たちが活躍する時代の始まりです。
「オラの国の殿様」たちは、現代でも、日本国民に好かれています。山梨県・長野県に住む老人は、明治時代以降も、武田信玄のことを「信玄公」と呼んだり。大阪では、昭和になっても、豊臣秀吉は「太閤様」と呼ばれ、親しまれました。
何故でしょうか???
考えてみれば、不思議な話です。彼らは、合戦で人を殺しもすれば、狡猾な謀略で敵を陥れたりもします。善か悪かと言われれば、「少なくとも、善とは言い難い」です。
答え。
彼らが好かれる理由は、「現代の経済大国日本の礎を築いたから」です。武田信玄は、領内で治水工事を行い、農業生産を大きく向上させました。その遺臣・大久保長安が、江戸幕府でも信玄の治水工事技術を用いたことにより、日本全国のGDP(生産力)は大きく向上しました。
つまるところ、「信玄がいたから、江戸時代に日本のGDP向上は大きく促進され。その蓄積をもとに、明治以降、産業革命が実現できた。今の私達の繁栄は、信玄のおかげだから」ということです。
秀吉も同様で。「秀吉が、①太閤検地で日本全国の生産情報管理を実現し、江戸時代260年の平和が実現されたから。②大阪平野を中心とする世界屈指の経済圏を作ったのは、インフラ整備の天才秀吉だから」です。
「オラの国の殿様」たちも、同様です。「日本が経済大国なのは、中小企業が強いからであり。日本各地の中小企業が繁栄できる礎を築いたのが、日本各地で民政を行った殿様たちだから」です。
要するに、我々が本日、食卓でうまい飯が食えるのは、「戦国大名たちがいたから」であり。だから、日本人は戦国時代が好き、ということなのでしよう。
だから、ちよっとやそっとの謀略を駆使していたところで、「オラの国の殿様も、ヤンチャだなー」という感じになる訳です。“好かれるからには、理由があり。受け入れられるからには、理由がある”ということです。
さて、せっかくなので、今回は"モラル"の話をしましょう。
武士たちは、モラルに敏感でした。
何しろ刀をさして、人を殺すのが仕事な訳ですから。
それだけに、規律正しくあろうとしました。
例えば、「天の夢 地の道」の【文和東寺合戦1】。
足利尊氏が南朝の軍勢と京で戦う時、「南北朝時代の京の民衆は、五条橋から、尊氏軍と南朝が戦う様子を“見物”していました」。まるで、野球の試合を見物するように。
これは、“民衆には手を出さないことがモラルだった”ことを意味します。
先段の土一揆でも、室町幕府の武士達は、土一揆の“民衆に対して殲滅戦を行いませんでした”(一般民衆を火で燃やすという戦法は避けている、という印象を受けます)。
これが武士達のモラルであり、日本のモラルであるわけです。寺社勢力も同様。例えば、土一揆の時、興福寺の経覚は「なんだかんだで、土一揆の民衆の訴えに耳を貸し、それを興福寺や京に取り次いでいます」。これも、高貴な身分の人が持つモラルでおり、日本のモラルです(西洋で言う、ノブレスオブリージュですな)。
(そういえば、平安時代の美人女官和泉式部も、伏見方面に出掛けた時。「牛飼い」が丁寧な和歌を送って、和泉式部を褒めたら。「あら、可愛い」と、つい一夜を共にしたそうだし。えーと、日本の高貴な人達は、“礼儀正しい民衆には、ついつい応えてしまう”というモラルを持ったようですな。ワッハッハ)
戦国大名も同様。例えば、A大名とB大名の「隣接地の村の年貢」。そういう村については、「A大名に50%、B大名に50%の年貢」が認められました。どちらの大名も、「俺に全て寄越せ」とは言わない。これも戦国大名のモラル。武田信玄も『甲陽軍鑑』で、「合戦に大勝ちするよりも、合戦後、占領した土地の民衆に良い民政を行う方が大事(でないと、反乱が起きると心得よ)」と言っています。
日本の外も見ましょう。
「天の夢 地の道」の【明建国記1】。明を建国した洪武帝(朱元璋)も「将たるもの、殺さざるをもって武となせ」と明言し、実行もしています(集慶を攻略した時。民衆を殺さないという意図を伝えるため、わざわざ五百の兵だけで民衆に近付き、自らは”鎧を脱いで一晩寝る”というパフォーマンスまで、実行)。つまり、殺る時は殺るが、民衆は殺さなかったわけです。つまり、“東洋も、民衆を殺さないのがモラル”な訳です。それは、元→明の、“大動乱の時代でさえ”そうでした。
では、次に西洋・イスラム。
「人の難 衆の狂」の【ヨーロッパ再編ー英仏百年戦争の終結とコンスタンティノープルの陥落ー】。英仏百年戦争を進めるフランスのシャルル七世は、「税を安くするから従え」と触れながら進軍し、ノルマンディ地方を奪回しています。ここでも、“民衆を殺さず、大事にするのがモラル”。
また、おっかないメフメト二世も、コンスタンティノープル陥落後、「略奪を許したのは三日だけ」。生き残った住民は保護し、一緒にコンスタンティノープルを更に繁栄させています。“ここでも、民衆は安易に殺さないのがモラル”です。
つまり、東洋も西洋もイスラムも、もちろん日本も。
“民衆を、大事にし、殺さないのがモラル”なわけです。




