【宗全赦免】
一四五八年二月、義政の庶兄政知が、古河公方足利成氏を討つためためにかんぞくしたのは二十九日、義政は、十五ヵ月東光寺に籠居する斯波義敏の出仕を許した。かねて、甲斐常治(斯波家家老、越前・遠江守護代、母日野重子と懇意)と対立する義敏を嫌ったが、方針転換したのである。まもなく、斯波義敏・甲斐常治に、越前・尾張・遠江勢の関東出兵が命じられた。更に五月十五日、上野の岩松持国が義政の呼び掛けで京方に転じた。機は熟した、六月、“関東主君”足利政知は、京の奉行人らを引き連れ、伊豆・国清寺に入った。古河公方派への工作が開始されたのである。
●堀越公方:越後上杉(上野白井)―山内上杉(武蔵北部五十子に本陣)―渋川義鏡(堀越公方の補佐役“関東探題”、山名宗全の娘婿、武蔵北部蕨に陣、千葉実胤・自胤を庇護)―扇谷上杉(武蔵松山・川越・江戸~相模三浦氏・大森氏小田原)―伊豆(堀越公方)
●古河公方:下野(宇都宮・小山)・常陸(佐竹・結城)―下総(古河に足利成氏の本拠、簗田・千葉)―上総(武田信長)・安房(里見)
更に、勝元の働き掛けで、山名宗全が赦免された。義政は奥州・信濃・東海・越前勢を動かし、一挙に関東を平定するつもりだった。
三月二十七日、義政は岩松持国とその子次郎・三郎に対し、「京方への参陣と、活躍の場合の恩賞を約束する御教書」を発した。五月十五日、持国はこれに応じ、古河公方足利成氏と袂を分かった。
この調略で活躍したのが、
岩松長純(岩松一族だが。旧義教派で、ガチガチの上杉方)と重臣・横瀬国繁である。
国繁は、持国家臣の伊丹伯耆守と下交渉を重ね、岩松家中を上杉方に転じさせた。五月二十日、国繁は、伊丹に長文の書状を贈り、万一があるとお互い困るから家中を纏めて下さい、と念押ししている。歴史の影には、常に、見えにくい所で、苦労を重ねる人達がいるわけで。こういう、舞台裏を見るのは、面白い。これまで古河公方方として、上野戦線を一人で支え続けた岩松持国の苦渋の決断は、
「成氏が、もはや利根川の西には、手が出せない」ことと、
「利根川を挟んで、関東が完全に東西に分断された」ことを示す象徴的な出来事となった。
厄介なことに、「そのこと自体は、将軍足利義政にとって、利益のある出来事であった」点は、見逃せない。




