【おおまか経済四 土倉酒屋と足利将軍家の台所事情】
室町幕府の財力は、【おおまか経済二】で触れて通り一四四〇年頃で次の通りである。
●財力:五山138万石(GDP8.5%)+日明貿易(年換算GDP0.5%)+土倉金融
前段で、土倉が出てきたので、「土倉金融」も分析しておこう。土倉金融の収入は、土倉役と酒屋役。これが、幕府に納められている。土倉役の納付額は前段で触れた。
●土倉役:年2,400貫(1441年頃)
一方、酒屋役である。『蜷川文書』に曰く。一四四〇年代、京の酒屋は「旧来の酒屋302店、新しい酒屋(『新加之酒屋』)25店」だった。一四四一年、足利義教が横死した年も、室町幕府は旧来の酒屋に2貫800文。新しい酒屋に半額の1貫400文を課税した。
●一回の酒屋役:2貫800文×302店+1貫400文×25店=880貫600文
酒屋役は、一四四一年十二月から翌一四四二年二月の三ヶ月、使用された。使途は以下。
○大御所様参御月宛(故義教正室・三条尹子に):300貫(月100貫、1000~2000万円)
○御女房達御行器物(殿中の運営費):107貫800文(月約35貫933文、359~718万円)
○御油代(光熱費):118貫33文(月約39貫443文、394~788万円)
○遡日御祝・御炭代(一日の参拝費か):69貫357文(月約23貫119文、231~462万円)
○年始歳末御祝色々(年末年始の諸費用):19貫180文(191~383万円)
○政所内談始御要脚(一月、政所の業務開始の雑費):10貫文(100~200万円)
○御果物代(年末の果物代):2貫400文(24~48万円)
○残金:243貫523文→余ったので、「諏訪下行費:80貫、吉田神社の修理費等:100貫」
⇒最終残金:63貫523文(635~1270万円)
年換算すると、例えば「正室ポケットマネー:1200貫(1億2000万~2億4000万円)」・「光熱費:約473貫(4730~9460万円)」である。二十一世紀の日本企業に当てはめれば“せいぜいが、スタッフ伸べ数千人の企業の運営費”に過ぎない。万を超える事はなさそうである。これが、足利将軍家の実体であった。質素倹約が美徳とされたわけである。
●土倉金融:土倉役(2400貫)+酒屋役(年3522貫)=5,922貫(約5.9〜11.8億円)
問題なのは、一四四〇年頃、日本の人口が約1,370万人だった点である。
○足利将軍家の統治力:人口約1370万人÷スタッフ1万人未満=1370人に1人未満
現代、日本の国家公務員の対人口比は、約217人に1人である。「小さな政府」どころではない。室町幕府が極めて小所帯の地方分権政権であり、諸大名・朝廷官僚・寺社勢力学僧の事務支援なしに、運営できる筈がなかったことが窺える。足利尊氏の頃、人口は1000万未満。足利将軍は人口増に対応した行政拡充ができず、諸国は分裂したのではないか。
前段土一揆の一四五七年、推計人口は1417万人。人口は1400万を超えた。暴れるご先祖様達は野蛮に見えるが。小所帯の室町幕府に、一五七三年まで付き合うのだから、“ご先祖様達も相当温厚で気長だった”ようだ(なお「五山138万石」は奉公衆に費やされた)。
というわけで、土一揆。
応仁の乱が起こる前の京では、「大名 対 大名」ではなく、
何と「一般庶民 対 幕府・諸大名連合軍」が起きていました。
しかも勝ったのは、”経済流通を把握し、幕府の財源(土倉)を叩いた”一般庶民。
ここで浮かぶのは「何で、武士が負けるの???現代でいう、軍隊でしょ???」というごくあたりまえの疑問だと思います。要因は三つ。
⓵仮に幕府・諸大名連合軍が軍隊だとしても、「兵糧・財源が絶たれれば、負けるしかない」(いわゆる、「凡将は戦術・戦略をかたり」「名将は補給を語る」というやつです)
⓶本段で書いたように「室町幕府の本体は”驚くほどの小所帯”であった」(要するに、大量の民が一度に攻めて来た時、それに対応できるだけの”事務処理能力がなかった”。”事務がストップすれば、組織はおしまいなのである”)まさに、有力大名・有力権門(寺社とか)との連合なくして成り立たない、地方分権政権の弱点が浮き彫りになったわけです。
※これを踏まえると、義政の父である足利義教が、関東の足利持氏とその残党を討った後、
すぐに横死にした要因の一つに行き当たります。義教は、関東の政務の中心である鎌倉を攻撃したのだから、当然、鎌倉府の奉行人らもちりぢりになり、関東は政務処理の事務がストップしたことになります。当然、そのしわ寄せは、京の政所(伊勢家とか)に来るわけで、おそらく、持氏滅亡後、
京の(少数しかない)政務方は、てんやわんやの状態になったのではないかと思われます。
そんな中、義教は、その後も大和を攻めたり、赤松を潰そうとしたり、拡張路線を続けたわけですから、奉行人らも本音のところでは「こんな御所様は、もうこりごりだ(誰かが討ってくれないか)」となったのではないかと思います。この辺りを踏まえると、この後の展開となる、足利義政とその周辺の苦労が分かると思います
⓷それと、もう一つが、京を巡る軍事条件(軍事的な制約)ですが、これは、【別段】で解説します。
で。それならば、どうすれば、室町幕府は、もっと上手く土一揆などに対応できたのでしょうか???
その答えは、複数ありまして。本書でいえば、「足利義政」「細川政元」「織田信長」「豊臣秀吉」らが、それぞれ、独自の答えを提示してくれる展開となっていきます。
(義政の評価が高いように見えるかもしれませんが。
よくよく考えると、義政は、後世いわれるほど駄目な将軍ではないです。
父義教よりも過酷な状況で将軍をしましたが、父のように横死してませんし)
これから課題になることは、織田信長や豊臣秀吉が出した答えです。
⓵どこかの段階の未来、圧倒的な存在が登場して、「情報を今よりも、圧倒的に管理するようになる」
⓶その過程で、例えば、堺が経済都市として発展したり、比叡山が信長によって焼き討ちにされたり、あるいは、ポルトガル人が海を渡って鉄砲を持ってきたように。何らかの再編成が起きると思います。
かの福沢諭吉先生の言葉を借りれば「(結局、武家と言っても、頼朝の頃から残っているのは)相良家と島津家くらいではないか」というやつです。
本書は、「天の夢 地の道」が、アンチ『太平記』を意識して、きちんと南北朝時代を書いたように。
「人の難 衆の狂」では、エンターテイメントに逃げて色んなことをごまかさざるを得なかった『日本外史』の頼山陽先生が、もしもリベンジをするとしたら、こんな事を書きたかったのだろうなーということを意識しています。
(『日本外史』の最初の方で挙げられている参考文献を見た限りで、本当に、頼山陽が100%の実力を発揮して”武家の歴史『日本外史』”を書いたならば、あんなヘッポコ完成度にはならなかったと思います。わざわざ、引退した松平定信に献上したり、いろいろ大変だったのでしょう)
ようやく、戦国時代の匂いがして参ります。乞うご期待!!!




