【馬借の色】
一四五七年十一月、土一揆は京で幕府に勝利し、土倉の債権放棄に成功した。これは、幕府の(土倉役の)税収減を意味する。土倉役は一三九三年「洛中辺土散在土倉並酒屋役条々」という法令で始まった税で、嘉吉年間(一四四一年頃)、月200貫が納付されたと推定されている。一四八五年七月の文書に曰く。
『土倉役事、随質物員数、如先規可致其沙汰』(蜷川文書)
“土倉役は、土倉(金融業者)が持つ質物の数(つまり債権の数)に応じて徴収する”
すなわち、土倉役は質物の数に比例して、幕府に納められる。従って、土一揆によって質物を奪われれば、土倉役も零となる道理であった。幕府にとっては税収「年2,400貫」(2.4〜4.8億円)の停止である。土一揆の狙いは政治的で、引き際の良さも含め、非常に計算高いものであった。恐るべきは、室町時代の一般庶民である。
九日、京で満足した土一揆の一部が、奈良に向かった。既に土一揆は、それ自体が意思を強く持ち始めていたようだ。十七日、奈良も北・南(布留合勢)・西(田原・高山・西大寺引田勢)の三方から攻撃を受け、封鎖された。町の北方には火が懸けられている。
ー土一揆が暴走したか。誰かが、矛先をやり過ぎた興福寺に向けさせたかー
十二月になった。幕府は分一徳政禁止令を発し、「債権保障を望む土倉も、債務放棄を望む者も分一銭を出せば認める」とした。京では土一揆騒ぎが終息したのである。応仁の乱前、将軍足利義政は、一四五四年とこの時の二回徳政を実施している。いずれも一揆騒動が一段落してから発令されるという特徴を持つ。義政は徳政に関し、慎重であった。
九日、経覚は大和古市への帰還を決めた。畑経胤・覚朝だけではと、狛の中村らが付き添い、脇森では尋尊(興福寺別当、盟友)の指示で大乗院の北面武士達が合流し、小泉の代官が三騎と手勢二三十人で駆け付けた。木津(細川勝元勢力圏)が通れぬという。
『馬借の分際に依り、途を違えるべきの条、外聞と云い、実儀と云い、然るべからず』(経覚私要鈔)
“馬借ごときに道を変えるなど。外聞も姿も悪い”
経覚はそう主張して、木津大弐房・中村を仲介に、土一揆に通路を開かせた。
『愚老通るの間、路を開きて通し了んぬ、結句送る』
“わし(経覚は六十三歳)が通る間は、路を開いて通し、奈良まで警護してくれおった”
何だ、神妙ではないか。経覚は馬借らの『色』に好感を持った。
『山城馬借、目安を捧ぐるの間、沙汰衆に遣わし了んぬ』
“山城の馬借(土一揆)らが、嘆願書を出してきたので、興福寺に届けてやった”
嘆願書を握りつぶさないあたり、誇り高くも頑固な経覚老人は、律儀であった。この辺が、弟子筋の蓮如に慕われた理由だろうか。土一揆の地侍・百姓らは、ある者は管領家臣と、ある者は畠山家臣の武士達と懇意にし、時に興福寺の経覚と対話する分別を持った。




