【黒鼠牛腸を食らう】
一四五七年十月、京の東口を封鎖した土一揆勢に対し、土倉方は傭兵を集め、幕府も政所伊勢家・諸大名の兵を出した。土一揆が続けば、土倉から幕府への税収(土倉役)が止まる。しかし、一揆勢は、各所から来援を得て強大化した。
土一揆方は南の東寺・三十三間堂を固める。西口からも、西岡の民が、馬借を先頭に洛中に突入する。このままでは、京の東・南・西が塞がれる。北口は山深い道であるから、この三方が押さえられればお終いであった。土倉・幕府勢は、京中央の因幡堂を固めたが、一揆勢からさかんに上がる鬨の声・鼓の音・角笛の奏に震えた。
―飢えた民が本気で怒れば、武家より強いか―
まるで、オスマン帝国に包囲されたコンスタンティノープルのような有り様であった。
十五日、管領細川勝元は木津・大那部・宇治大路の国人、平等院衆徒を洛南に向かわせ、宇治橋を引かせた。みずから洛南の連絡を断ち、一揆の背後を塞いだのである。管領もさるものだった。これでは畠山義就ではなく、勝元が山城守護のようだと経覚は漏らした。
だが土一揆は放火を繰り返し、二十六日、五条辺で土倉方を撃破した。二十七日、細川家三百騎・一色義直百騎・土岐成頼二百騎・山名教之百騎も応戦したが、安富二郎左衛門尉ら十一人、一色の金山、土倉大将梅墻が討たれた。更に公方勢(将軍親衛隊)も敗れた。
『下剋上の至り、狼藉所業未曾有のもの哉、黒鼠牛腸を食らうべき』(経覚私要鈔)
“下剋上の至り、狼藉所業未曾有のものだ。まさに「黒鼠牛腸を食らう」である”
経覚の脳裏に、『野馬台詩』(平安時代から室町時代に流行した予言書)の一節「黒鼠が牛腸を食らう」が浮かんだ。かの予言書が真実を語るかはともかく、さすがに不安となった。
『武家の体たらくなきがごときか、嘆くべし、嘆くべし』
“武家も情ないことだ。嘆かわしい、嘆かわしい”
ちと強すぎる。幕府は、起こしてはならぬものを、起こしたのかもしれない。
十一月一日、京の諸口は土一揆によって完全に封鎖された。京の商家は、品のない状態となった。消費都市京を流通封鎖が直撃し、その機能が停止したのである。やむなく、土倉方は一揆に屈し、質物(借金のかたの担保)を放棄した。一揆勢のうち、地方から上洛した者は無料で質物を奪回し、京に住まう者は分一銭(借金元本の十分の一)を幕府に納めて質物返還を受けた。二日、土倉から借金をしていた経覚の従者吉阿も、はした金を幕府に納め、まんまと債務返済と硯・文台の奪回に成功した。
『一興』
これで自分も土一揆の仲間だと、経覚は記す。普段は、大和の黒幕であり、大方殿(足利義政の母日野重子)に高級紙を贈る人だが。何の騒ぎにも首を突っ込み、ある時は鬼薗山城に籠もって成身院光宣・筒井順永と戦い、落城して古市胤仙のもとで暮らす人だった。悪い癖が出たと言える。三日、満足した土一揆は、京から退いた。
●補足:
土一揆の大将「梅墻」は、「うめがき」と読むそうで。
今風に言えば、キラキラネームですな。
名前からして、悪党・博徒、あるいは戦国時代で言う「かぶき者」の原型みたいな人でしょうか。
当時、人口数十万の大都市京には、様々な人が住み。
その中には、浪人や日雇い労働者も多数いました。
彼らにとって、この土一揆騒動は、用心棒としての稼ぎ時だったようです。
彼らの扱いが最も上手かったのが、
三代将軍足利義満で、
明との交易で得た莫大な金銭を公共工事に回して、
彼らを建設労働者として雇っています。
金閣寺や、その他高層建築物と言える仏塔など、
義満時代には、京で建設ラッシュが起こりました。
気になるのが、何故か、これらの建築物には火災が相次いだこと。それと、何度も再建工事をしていること。
あるいは、わざと燃やして何度も工事を行い、義満は経済を刺激し続けていたのかもしれません。
足利将軍は、ケインズ登場の五百年以上前から、公共工事による景気刺激策を意識的に行いました。
経済流通構造を理解して京を封鎖した土一揆の一般庶民らといい、
室町時代の人達は、どれだけ経済通なんだ。




