【土一揆という策】
一四五七年八月、河内方面で関所新設反対の一揆が起こった。この年、疫病と日照りが続き、そんな中の関所登場に民が怒ったのである。同じ頃、南山城では、管領細川勝元と畠山義就が勢力争いを繰り広げていた。元来、山城は畠山の勢力圏である。足利義持の時代、将軍懐刀の役割を黙々と果たし、膝元である山城の守護職を許されていた。だが、義就と弥三郎が大和・河内で抗争するに及び、弥三郎に味方する細川勝元が、相良郡(大和との国境に位置する)の国人らを取り込んでいた。
九月、畠山義就が相良郡の細川派国人の討伐を決意し、二十三日、家臣誉田遠江入道の軍勢二百が、南山城久世郡の戸野・寺田に布陣した。久世郡は巨椋池の南に位置する。洛中の南、喉元であった。一方、更に南の木津では、細川派国人「山城衆十六人」が集結していた。二十七日、大和でも、越智家栄(畠山義就派)が奈良に着陣した。
二十九日、両派は遂に南山城で衝突した。
●畠山義就派:誉田遠江入道、越智家栄・古市ら大和国人
●管領細川勝元派:山城衆十六人(木津・狛の国人ら)、西岡勢(桂川西の国人)
畠山義就派が勝利し、木津・狛勢が敗走した。勝勢の誉田勢に、越智らが合流した。
ここで、幕府から畠山義就派に対し、退去命令が出た。事態悪化に焦る細川勝元と勝ちを固めたい畠山義就・今参局らの間で、落とし所が一致したのである。かくして、義就派の誉田・大和国人らは、無事に兵を引いた。
『幸運の至り也、凡そ当国勢、他国に向かう時無為の条、其の例甚だ少なき』(経覚私要鈔)
“幸運の至りだ。大和の国勢が、他国に出兵して無事帰陣するのは少ない”
先の勝利に対し、越智勢に榼一荷・白壁一合を贈った興福寺大乗院・安位寺経覚はそう漏らしている。これで、大和の自派(大乗院派:興福寺別当尋尊、安位寺経覚、古市・越智ら)の発言力も高まる。十月四日、経覚は古市迎福寺を出立し、上京した。七日、三宝院義賢に榼一荷・柿籠一つを贈った。管領に鉄槌を下した大乗院派の黒幕登場に、義賢の反応は早かった。明日にも来訪をと経覚に求めたのである。だが、経覚は先約があると断った。八日、更に求めがあった。
『明日、必々来臨あるべし』
“明日、必ずいらして下さい”
九日、経覚は従者吉阿を連れ、三宝院を訪れた。待っていたのは、義賢の饗応であった。
だが、ここで経覚らの筋書きを超える展開が起きた。同じ九日、河内で起きた一揆が拡大し、山科の郷民らが京の東口を塞いだのである。土一揆の標的は、土倉(京の金融業者、八割が比叡山系)が握る債権であった。十一日、一揆勢は法性寺に乱入して質物を奪い取った。債務担保である質物の奪回、それは「債務破棄」を意味した。こうした行動を“私徳政”という。土一揆の行動は、たちまち土倉と幕府を窮地に陥らせた。
というわけで、再び土一揆です。室町時代は、山城の国一揆・加賀一向一揆といった、一揆が多発した時代であります。民衆台頭の時代でもあるので、本書も「衆の狂」を謳っています。但し、「狂」です。借りた金を返さないのだから、「狂」。いわゆる、“民衆が闘争する史観”には興味がないので、幻想もお花畑も混ぜるつもりはありません。
一四五七年の土一揆で注目すべきは、「一揆勢の合理的すぎる行動」でありましょう。一揆勢の動きは、本職の武家よりも戦上手。「京を三方から同時封鎖した後、囲んで、延々と威嚇行動して、幕府連合軍を撃退」しているわけで、こんな合理的な軍略は、南北朝時代で言えば足利尊氏か楠木正成くらいしか行えない軍略です。新田義貞など、京争奪戦で、九州から東上した尊氏に「正面から挑んで敗退」していますしね。ということは、「室町時代の一般庶民は、新田義貞より戦上手だった」あるいは「庶民の中に、無名の大軍略家がいた」ということになってしまいます。
それは時代小説なら面白いですが、現実には考えにくいです。かくして。
―兵法に明るい誰かが、一揆勢に入れ知恵をした(あるいは、裏で指揮していた)―
ことになります。
●容疑者1:楠木の残党(そもそも、一揆は「河内方面」の関所反対で起きている)
●容疑者2:南都系寺社勢力とその周辺(五摂家出身の安位持経覚が一揆勢の成果に大喜びしているのがあやしい。そもそも、経覚は、幕府が筒井家を赦免したことに不満で、「我が身の(大和での)進退はどうなる」と日記で嘆いているくらいだった。だから、土倉がダメージを受けた幕府・比叡山の失態を京で見物して、ザマーミロと喜ぶ状態であった)
これらを踏まえると、この事件は「単に、民衆が蜂起したわけではなく、多分に政治的な背景があり、反幕府の協力者が多数いて、だから成功した」と判断されます。とどのつまり、「民衆による反体制の戦い」という単純なものではないのです。そもそも、この時代も、政治体制の根幹は「朝廷」であり、「室町幕府」は「軍事面の多くと、政治面のやや多くを担当する、“大諸侯足利家のお抱え機関”」に過ぎませんからね(だから、東国では「古河公方」が自立してしまいましたし。津軽や蝦夷地では、安東氏や蠣崎氏が朝廷寺社勢力の承認を受けながら、独自の運営を行なっているわけです)。義政にしてからが、朝廷から、征夷大将軍や大将の位をもらって、ようやく「公方」として君臨できたわけですし(そう考えないと、京の金融8割が比叡山に支配され、大和が興福寺に統治され、紀伊の8~9割が高野山・根来寺などに統治されている「当時の現実」の説明ができませんし)。
というわけで、本書は、この後、室町幕府の混乱・様々な一揆を描きますが。そういう史観は採りません。そもそも、一向一揆の本願寺は“朝廷門跡”ですし。ちっとも、反体制ではないのです。民衆闘争だの反体制だのが、史実に則さないことが窺えます。




