【長禄合戦】
将軍足利義政は、良き将軍たろうとしていた。だから、父義教と違い意見をよく聞いた。
『武衛は国家の宗臣なり』(碧山日録)
“武衛(三管領筆頭の斯波家当主・斯波義敏)は国家の柱石です”
『禍恐らくは国家に及ばん。願わくは斐子に誘めて以てその命に従い和せしめん』
“(家中対立は)災い国家に及びます。家老甲斐父子を説き、武衛と和睦させるべきです”
一四五八年二月、幕閣らの意見で斯波義敏の再出仕を認め、関東の古河公方・足利成氏の討伐を優先したのは、義政の政略・戦略眼を示す。だが、世間一般はそうではない。七月、越前で斯波義敏派と家老甲斐常治・朝倉孝景派が衝突を始めた。義政の戦略は見事頓挫した形となる。父義教であったら、斯波義敏は鬼籍に入っただろう。尊氏・義満譲りの眼を持つが、なまじ育ちよく、良き将軍たろうとし、往生する。それが義政であった。
当初、斯波義敏に抱き込まれた越前国人らは、守護代甲斐常治・朝倉孝景方に燈籠の斧を振るったかに見えた。だが、八月七日、有力国人・堀江利真(前年の土一揆騒ぎで息子二人を朝倉孝景に討たれた)が越前に下向し、義敏派は一気に勢いを得た。十一日、堀江は敦賀郡(越前国生産3.1%)で甲斐・朝倉方二十余人を討ち、代官・大谷将監兄弟三人を切腹に追い込んだ。更に、坂北郡(20.4%)河口庄・堀江郷の代官が追い出された。堀井利真は、「越前国生産23.5%と敦賀港をおさえ、越前の南北国境の掌握に成功」した。
だが、これらに対し、義政は関東征伐優先を譲らず、八月この年に許された山名宗全が上洛している(在盛卿記)。義政は、甲斐・朝倉・織田を京から出させず、越前を堀江ら義敏派のなすがままにさせた。九月、越前に多くの庄園を持つ大和興福寺の尋尊(興福寺別当・大乗院)が、現地の名主・百姓の要請を受け、河口庄の新郷・王見郷・関郷・荒居郷・溝江郷・新庄郷・細呂宜郷と堀江郷の直務を幕府に申請した。二十日、義政はこれを認める奉書を下し、二十四日尋尊は御礼のために上洛している。事態を整理しよう。
●畠山義就派:今参局(義政の乳母)、尋尊(興福寺大乗院派)、大和国人古市ら
●管領細川勝元派:日野重子(義政母)、山名宗全(舅、上洛)、甲斐常治・朝倉孝景
察するに、斯波義敏とこれを奉じる堀江利真の越前での狼藉は、幕府内のどの派閥からも浮いた政治行動だったようだ。関東に下向せぬ斯波義敏に警戒した義政は、管領派の甲斐・朝倉らを京に温存し、乳母に近い興福寺大乗院派の権益を護ることを決めた。
だが、九月末、堀江利真ら斯波義敏派が越前を制圧した。堀江らは、興福寺の使者に対し、越前守護職を務める主君斯波義敏の花押をすえた文書の提示を要求した。更に、九月下旬から十月初旬、関東で五十子の上杉勢が、利根川から古河への渡河を試みたが敗れた。
これも、斯波義敏が関東に出兵せぬためだ。ここに、義政は越前を看過できなくなった。
『長禄二年戊寅十一月遡日京を打ち立ち』(朝倉・八木系図)
十一月一日深夜、朝倉孝景は甲斐常治の子敏光らと、京を出陣した。越前長禄合戦である。




