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【戦国時代 ー人の難 衆の狂ー】  作者: ヒデキ


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【コシャマインの乱、あるいは十五世紀の日本の「鉄」経済】

十二世紀から十四世紀に掛けて成立したと推測されるアイヌ文化の特徴は、「自前の土器を持たず」「鉄の製造と加工を外部に依存する」点にある。もっとも、蝦夷アイヌは交易の民で、高価なラッコの皮や山丹錦(中国風の織物)を扱っていれば良いのだから、貿易経済学が推奨する比較優位を踏まえても、国際分業を実践する彼らは正しかった。

●和人からの交易品:米(酒造用)・酒・鉄製品・陶磁器(明製も含む)・銅銭

この中で、「鉄」に注目しなければならない。


 十五世紀、日本の「鉄」経済は、極めて合理化が進められていた。六世紀、近江・吉備・安芸を皮切りに始まった鉄生産は、出雲・常陸、次いで七世紀末からの奥州相馬、十世紀の武蔵・猿貝遺跡の「製鉄・鍛冶・鋳物の総合生産」に代表される全国的な生産盛況に結実した。大体、火山国日本は、どこでも鉄が生産できる。日本が「資源に恵まれない」と言うのは、正しくない。日本の歴史は、資源の歴史である。

 十二世紀以降、日本の「鉄」経済は様相を変える。気が付けば次の状況が生まれた。

●製鉄:中国地方のみ(原料は中国山地の砂鉄、例外は奥州南部地方の「南部鉄」くらい)

 大矢・石神遺跡など。地下構造を持つ「大型の船型炉」、送風に大きな「たたら」を使用。

●製鋼(「鉄」の次の段階):越後・北沢遺跡、出羽の米代川流域~陸奥の岩木山麓

●鋳物(「鉄」を鍋等に加工):武蔵・金屋遺跡など

九世紀後期の『延喜式』によると、鉄の価格は「1鋌=5~7束」で、陸奥・出羽では「1鋌=14束」だった。鉄の流通が遅れ、高価な鉄価格に難儀する奥羽の人々は、起死回生の策として、「南部鉄」を製造したと思われる。当時、鉄は、まさに戦略物資であった。


 こうして、次のような流通経路が生まれた。

●流通経路:中国地方(製鉄)⇒日本海輸送で全国へ⇒越後(製鋼)⇒東は会津まで

                        ⇒出羽陸奥(製鋼)

                        ⇒武蔵(鋳物)⇒各地へ

      奥州南部地方(製鉄)⇒蝦夷地・「太平洋側の奧州~常陸の地域」へ

注目すべきは、越後の製鋼だろうか。後段で登場することになる、越後の上杉謙信は、日本海交易の中心・直江津<年間4万貫(40~80億円)の収入>と藍<高級染物ブランド>に加えて、「鋼」の経済<高性能な鉄>を掌握していたことになる。織田信長が上杉謙信の存在自体に震え上がっていたのも、実に納得のいく話である。


 蝦夷アイヌは、十二世紀から十四世紀にかけて「鉄の加工業」を大衰退させている。彼らが使う囲炉裏の鉄鍋、あるいは武器や狩りに使う刃物は、和人との交易に依存していた。そのため、蝦夷アイヌの遺跡からは、鉄製品の出土が多い。鉄製品は、再加工で鍛え直されることが少なく、使い捨てにされることが多かったようだ。

 一四五六年、蝦夷アイヌが和人の鍛冶屋村を訪れた。

『志濃里之鍛冶屋村家数百康正二年春乙孩來而令打鍛冶於劘刀』(新羅之記録)

“志苔の鍛冶屋村は数百戸である。一四五六年春、蝦夷の使いが小刀を打たせに来た”

このあたり、既に蝦夷は鉄の鍛冶業をやめていた傍証になると思われる。

『乙孩与鍛冶論劘刀之善悪價』

“蝦夷の使いと鍛冶屋が小刀のでき具合と代金を巡って口論となった”

要するに、鍛冶代を巡って口論となったのである。思うに、蝦夷と和人の鍛冶屋の交易は、この頃日常的な光景であった以上、件の蝦夷の使いや鍛冶屋は、気が短かったのだろう。

『鍛冶取劘刀突殺乙孩依之夷狄悉蜂起』

“鍛冶屋が小刀を取り、蝦夷の使いを刺殺した。これにより、蝦夷ことごとくが蜂起した”

蝦夷地で和人と共生する者以外の蝦夷がことごとく蜂起し、和人館が次々襲撃を受けた。「コシャマインの乱」である。冷静に考えた限り、このような事件一つで蝦夷の大蜂起が起きた事実は二つのことを物語る。一つ、このことは逆に、それまで和人と蝦夷の間に、この手の事件が“なかった”事実を示す。だからこそ、衝撃が奔ったのではないか。二つ、この事件は、蝦夷が「鉄の加工業を廃業」していく過渡期だから起きた。すなわち、和人と蝦夷が産業の分業体制を確立する過程で、必然的に起きたのである。そこは、蝦夷側の「東部ノ酋長・コシャマイン」も意識する政治・経済問題であり、だから、乱後も蝦夷の民話や子守唄の中で、「和人と交易すると儲かる」という認識に揺らぎはなかったのだと思う。やれ侵略だ、弾圧だ、とすぐ言うのは歴史の流れの軽視に繋がりかねない。


 事実、蝦夷は強かった。一四五七年五月十四日、コシャマインの結集した東部蝦夷アイヌは西進し、亀田半島(函館・志苔らへん)の和人館を次々と攻撃した。

『迪大永五年春東西数十日程中住所村々里々殺者某事起元於志濃里之鍛冶屋村也』

“一五二五年春に至るまで、もとの事件が起きた志苔の鍛冶屋村は元より、東西数十日で移動できる地域の村々・里々はことごとくが殺された”

コシャマインは、志苔館主・小林良景、函館館主・河野政通を攻撃し。次いで、中野の佐藤季則、脇本の南条季継を攻め落とし、更に松前守護・下国定季、穏内郡館主・蒋土季直、比石館主・厚谷の重臣らを攻め落とした。ここまで来るとやり過ぎである。村々には、和人と共生する蝦夷もいたのだが。この辺りの惨禍は、「移民を巡る現地住民との対立」であり、現代にも通じる話である。この場合、“ヘイト”を行なったのは、蝦夷側ということになる。

『活残人集住皆松前与天河』

“生き残った者は、みな松前と天ノ河に集結した”

すなわち、和人らは蝦夷地・西南端の二拠点に追い込まれたのである。下国守護・安東家政、上国守護・蠣崎季繁は、守りを固め、蝦夷の攻勢を凌ぐ他なかった。


 ここで、花沢館を包囲していたコシャマインは蝦夷軍を東へ後退させる。包囲戦の継続の不利と、蝦夷地の西南端まで延びきった戦線の危うさを悟ったからである。

『其時上ノ國之守護信廣朝臣爲惣大将』

“この時、武田信広を総大将とする一軍が追撃に出た”

『射殺狄之酋長胡奢魔犬父子』

“蝦夷の酋長・コシャマイン父子を、矢で殺した”

馬術に優れ、毒矢を使う蝦夷の軍事力侮りがたし。信広軍は、後退する蝦夷らを多数切り殺したが、そこで追撃を止めざるを得なかった。

こうして、武田信広は、蝦夷の大攻勢から和人を護った。こののち、信広は、上国守護・蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)を娶り、蠣崎家と花沢館を継いだ。信広は、松前・天ノ河付近まで後退した和人の勢力圏を回復させ、蝦夷との新たな共生関係を築いていく責任を負ったのである。先述の「一四七五年の樺太アイヌからの貢物献上」は、武田(蠣崎)信広が蝦夷地の統合を進め、各方面の蝦夷が従属していった功績の一端であろう。


 コシャマインの乱後、蠣崎家は当主信広のもとで、蝦夷地和人勢力の盟主となった。信広は、花沢館から勝山館に拠点を移し、この地を新たな和人の交易拠点として開発した。

 勝山館は、南西の夷王山(標高159m)に護られる道南随一の都市。天ノ川の河口に建ち、眼下に交易港・大澗湾を見下ろし、面積35万㎡をほこる。

●勝山館(南ルート):―松前―十三湊(津軽)―日本海各所(出羽・佐渡・若狭など)

    (北ルート):―江差―西蝦夷奥地―樺太(オホーツク海)・黒竜江方面(大陸)

まさに、「日本海―オホーツク海交易」の要所。この地を選んだ信広は、啓眼であった。

北東山腹からは、六百基以上の火葬墓・土葬墓が発掘され、漆器・小玉・硯・釣針・明銭等が副葬される。斜面には、三段構造の平坦面が整地され、これを壕・土塁・柵列が囲む。館・最上部には、館神八幡宮が祀られる。客殿・倉庫も置かれ、館が「城兼交易拠点」であったことを物語る。整備された大小の道・橋は、館主信広の民政充実の証であり、井戸は勿論、木桶で水を引く貯水施設まで整備され、馬ばかりか、犬や猫も飼われた。

●産業:交易・農業・狩猟・漁業・鉄加工業(鍛冶施設あり)

<交易品>陶磁器・明銭、米・茶道具・仏具人形類、のち鉄砲・ルソン壺

<農作物>ソバ・キビ・マメ(鉄製農具使用)

<狩猟>海:アシカ・オットセイ・トド・クジラ、陸:エゾシカ・ツル

<漁業>(春)ニシン・マス・カレイ(夏秋)タイ・マグロ・ブリ(秋以降)サケ・タラ

<鉄加工業>大鍛冶・小鍛冶が存在、鍛冶職人の集団が暮らした

館からは、鹿角や銛も発掘され、蝦夷アイヌも暮らしたことが分かっている。「鉄」や「米・酒」を求める蝦夷達にとっても、憩いの場だったようだ。館からは、碁石や双六の駒、のちに煙管・香炉も見つかっているので、蝦夷もあれこれ楽しんだのかもしれない。

 これらは、文武を使い分け、蝦夷地を統轄した武田(蠣崎)信広の手腕を示す。

というわけで、

経済交流という視点で、「蝦夷地(北海道)」を眺めてみました。


●補足:蝦夷の喧嘩について

先段で紹介したキリシタン宣教師の記録によると、

蝦夷は喧嘩の際は「木槌で殴り合う」らしく、本段で刃傷沙汰となった事件の蝦夷も、

「大喧嘩になっても、木槌で殴り合うくらいの想定で、口論を始めた」のではないかと思います。

(なお、殴り合った後は、「海水で冷やして手当」するそうです。どこの不良の喧嘩なんだ)

ただ、倭人の方にはそんな文化はないので、

大喧嘩になった⇒”刃物を出し”⇒刃傷沙汰

となったのではないかと。

蝦夷側からすると、「木槌で殴り合うのが関の山のところを、刃物を出しやがった」というわけで。

倭人は何と危険なんだということになって、蜂起となったのではないかなーと。

このあたりを考えると、異文化コミュニケーションの難しさを感じます。

双方、「そこまでのつもりはなかった」という話ですな。


さて、

蝦夷アイヌや武田信広らの活動の歴史を見ると、

北海道が「太平洋・オホーツク海・日本海の出逢う交易要所」であることに、気が付きます。

すなわち、

「東側:北海道―千島列島(貴重な動物資源)―カムチャッカ半島(天然資源)―アラスカ」

「西側:北海道―樺太―ウラジオストック・黒竜江―中国東北地方”等”・モンゴル―中央アジア(鉱物資源)」

であり、これほど経済的に活用されるべき好立地も珍しいのではないかと思うのです。

現に、十五世紀の蝦夷アイヌ達は、西側の中央アジアからガラス玉を仕入れています。

北極の氷が解けつつある現代こそ、この北海道を巡る交易路の活用性は、

飛躍的に高まるのではないかと思います。


北海道をハブとした交易活発化は、北太平洋の経済を活性化させ、ひいては太平洋を、より可能性のある地域にするのではないかと思います。その第一歩として、十五世紀の蝦夷アイヌや武田信広らの経済活動を真似してみたら面白そうですね。


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