【脱線六・海民蝦夷(アイヌ)と交易】
蝦夷は、狩猟・農耕・交易を営む民である。一六一八年夏から一六二二年まで蝦夷地(北海道)に渡ったキリシタン宣教師アンジェリヌ、カルワーリュがイェズス会に宛てた報告によると、蝦夷は次のような生活をしていた。
●産業:交易・農耕・狩猟(鉄の加工産業は、十二世紀から十四世紀にかけて大衰退)
●農作物:莢果(豆)・稗のみ
●武器:毒の弓矢、槍・投槍、脇差くらいの彎刀
●具足:「小板を何枚か張り合わせた笑うべきもの」、つまり「鉄製」ではなかったようだ。
●陸の乗り物:馬(ヨーロッパの馬に非常に似ている、しかも男女ともに乗馬に巧み)
●海の乗り物:二百石の大船も存在、松前まで七十日の航海も行う、家族で船移動
すなわち、蝦夷は「大船をも操る馬術に巧みな交易海民」であった。
かの『新羅之記録』にも記されている。
『宇曽利鶴子州ト万堂宇満伊犬ト云小嶋トモアリ此種類ハ多ク奧州津軽外濱ニ往来交易』
“函館・松前には渡党(アイヌと和人の混血)が多く、奥州津軽外ヶ浜に往来交易した”
再びキリシタン宣教師の報告を取り上げると、松前での交易品は次のものであった。
●東方(千島方面)から来るアイヌ:ラッコの皮、鷹、鶴、鷲の羽
●西方(樺太方面)から来るアイヌ:山丹錦(明風織物)等・ガラス玉(何と中央アジア製)
ラッコはウルップ島方面(択捉島の更に東)の特産である。山丹錦に至っては、明の統治の限界点であるアムール川(黒竜江)まで行かなければ手に入らない。蝦夷らは、船を操り、馬を駆って、大陸からも交易品を仕入れていたのである。なお、『蝦夷島奇観』という史料には、若狭が、松前から昆布を仕入れたとある(武田信広はその縁で最北に来た)。
そんな蝦夷であるが、特長は話し好きな点である。だいたい蝦夷地(北海道)は、一年の半分が雪と氷である。囲炉裏の生活で、そうなるのは自然なことだった。
胆振地方に口伝される蝦夷のウエペケレ(民話)に曰く。
『Shino nishpa an hine an-an,wenkashu unimam utar,epirka shir,aekoitupa hi kusu』
“私は偉い親方だった。だが、交易に出た者達があまりに儲けるので、羨ましくなった“
『a-machihi a-shietunushte,hine uimam-an ruwe-ne,orwano tono-kotan tap aye-an hine』
“それで妻と二人船に乗って交易に出掛けた。和人の殿様の村(松前)に行ったのだ”
『chihoki sanke-an akusu,tono otta,tu-ikor pirkap,re-ikor pirkap,amam ne chiki,sake ne chiki』
“和人の殿様方に、鹿と熊の品を渡すと、米や酒と交換してくれた”
このように、蝦夷にとっても、和人との交易は望むところであった。
●和人からの交易品:米(酒造用)・酒・鉄製品・陶磁器(明製も含む)・銅銭
交易は蝦夷に富をもたらし、蝦夷地では作れぬ必需品を得る手段だったのである。
蝦夷の言い伝えによると、「人間は不完全なもの」なのだという。神様が人間をお作りになった時、あと少しの所で用事ができたため、側にいたラッコに他の神への引き継ぎを頼んだが、ラッコがいい加減な対応をしたため、だそうな。
ラッコ猟に出て、毛皮を松前・奥羽の有力者に運ぶのは男性アイヌである。それを待って、留守を護る女性アイヌは、たくましかった。女性の蝦夷の子守唄に曰く。
『Ahu ash a,ahu ru ru,huru huru chi-kor pompe shine-an-to ta chish kamui-kar』
“アフ・アシア、アフ・ルル、フルフル。ある日、私の赤ちゃんが火のように泣き出す”
『nep tat eta e-nu ruisui kusu iram-shitnere e-chish hawe-an ya?』
“あなたは何が聞きたくて、うるさく泣くのです?”
多分、ここで少し笑いながら。
『e-nu rusuipe ne hawe-ne yakun e-nure-ash na』
“そんなに聞きたくて泣くのなら、聞かせてあげるわ”
『e-kor-ainu unimam kusu tono moshir o-chip-nere tono-e-amam tono-ku-sake poronno』
“あんたの父ちゃんは、和人の村(松前・奥羽)に交易へ。船で和人の米や酒をいっぱい”
何と、ここでも「和人との交易」が出てくるのである。
『chipi kusa wa yan ko a-uniki ta somo k-no kotan-keshi ta iwan noyapi-tanne wen menoko uko-okai shiran ike orta yan wa』
“船で還って来たのに。家には帰って来ず、村はずれの六人のアバズレ女が住む所へ”
『e-kor-ainu iwan noyapi-tanne toho uk kusu shiso otta terke harkiso otta terke aine』
“あんたの父ちゃんは、六人のアバズレの乳をつかもうと、右へ追い、左へ跳ね”
『o-tepa pishi o-tepa kankari ramma keshto u-ha ta roise kor okai』
“ふんどしを振り下げ、ふんどしを振りまわし。毎日、がやがや騒いでる“
多分、ここでまた少し意地悪に笑いながら。
『tapampe kusu e-nu rusui hawe-an』
“このことが聞きたかったのね”
ちなみに、子守唄は「あら。赤ちゃんは、もう聞きたくないと泣きやんだわ」で終わる。
文字を持たぬ蝦夷が、自らの来し方を語るのは、「口伝」より他にない。蝦夷達は物語や子守唄を口伝する中で、自らの文化を子孫に伝えたのである。
蝦夷が、何故文字を身に付けなかったのかは、分からない。だが、彼らの民話を見ると、自然の脅威や人生の危険を説くものが多く。厳冬の地・蝦夷地で生き抜くため、「必要不可欠の最小限」にこだわったのだと思う。文字は必要不可欠ではなかったのだ。そんな彼らが、「和人との交易」を様々に口伝したのは、和人との交流の重さを示す証左に他ならない。蝦夷は、年々和人との経済統合を進め、「日本」の構成員となっていった。




