【北国動乱3―交易民蝦夷(アイヌ)―】
五四四年十二月、越の国(現在の北陸地方)から報告が届いた。
『於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留』(日本書紀)
“佐渡北部「みなべ」の海岸に、粛慎人が来た。船一隻に乗り停泊している”
『春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之』
“春夏、魚を採って食べている。佐渡の島民は、人ではない鬼だとも言い、近付かない”
この「粛慎人」が、蝦夷を指すとも、蝦夷地・樺太のオホーツク文化人を指すともいう。いずれにしろ、これが、和人と蝦夷地(北海道)の民の出逢いである。江戸時代、「松前―佐渡」には直行便が存在した。その起源は、五四四年以前に遡るようだ。
六六〇年三月、日本は阿部臣(越を治める阿部氏家臣)を派し、北方遠征を行なわせた。
『率船師二百艘伐肅愼國。阿部臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側』
“二百艘の船団を率いて粛慎国を討伐した。阿部臣は陸奥の蝦夷を乗せ、大河に着いた”
陸奥の蝦夷が参加している以上、場所は蝦夷地以北。大河は、尻別川か石狩川だろう。飛鳥時代から、蝦夷地への進出は始まっていたのである。
『於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營』
“そこで、渡島(北海道)の蝦夷が千人ほど海岸にたまり、河沿いに居住していた”
その中の二人が進み出て言った。
『肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而士官』
“粛慎人の船団が多く来て我らを殺します。河を渡るので、お仕えさせて下さい”
すなわち、蝦夷地には、日本への臣従をのぞむ蝦夷と、討伐対象となる「粛慎人」がいた。船団が二十艘だと聞いた阿部臣は、粛慎に使者を送ったが、彼らは応じなかった。
阿部臣は一計を案じた。
『積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜』
“絹・武具・鉄を海岸に置いた。粛慎人が欲しがると思ったのである”
北海道大学のサクシュコトニ川遺跡では九世紀の鍛冶遺構(鉄の「加工」施設)が発掘されている。蝦夷や粛慎人は、鉄を加工できたが、製鉄技術を持たなかった。彼らにとって、鉄は農具や武具等を強化できる“戦略物資”だったのである。
『從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去』
“老人二人が船から出てきた。置いておいた絹等の周りを、じっくり見ながらめぐり歩き。自分の服を脱いで、布一端を持って行き、船に乗って去っていった”
このような遣り取りを「沈黙の交易」という。言葉の通じぬ人達が、顔を合わせず、交易を行なう手段である。江戸時代、新井白石も『蝦夷志』の中で、北海道アイヌと千島アイヌの交易手段として紹介している。これが、日本とオホーツク文化人(樺太方面のアイヌ)との初交易である。すなわち、日本と蝦夷地の交易開始は、六六〇年に遡る。




