【北国動乱2―十五世紀の日本―】
『往古者此國上二十日程下二十日程松前以東者陬川西者與依地迄人間住』(新羅之記録)
“往古、蝦夷地には、松前から二十日掛かる鵡川と余市まで、日本人が移住していた”
『右大将頼朝卿進發而追討奥州之泰衡御節従糠部津軽人多赴渡此國』
“源頼朝公が奥州の藤原泰衡を追討した時、津軽の人が、多く蝦夷地へ渡ったのである”
彼らは、薙刀を舟の櫂とし、海を渡った。そのため、松前の人々は、舟の櫂を薙刀の形にしたという。すなわち、遅くとも平安時代末期、蝦夷地には多数の日本人が住んだ。源実朝の時代には、強盗・海賊数十人が召し捕られ、蝦夷地に追放されたという。
『中比内海之宇須岸被攻破夷賊』
“宇須岸(北海道渡島半島の北斗市らへん)の海賊(武装海商)を討つこともあった”
鎌倉幕府で奉行人、室町幕府で雑訴決断所の寄人を務めた諏訪円忠編纂の絵詞に曰く。
『蝦夷カ千島ト云ヘルハ我國ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ』(諏訪大明神絵詞)
“蝦夷が千島(北海道と「周辺諸島」)は「我が国の」東北に位置し、大海の中央にある”
『日ノモト唐子渡黨此三類各三百三十三ノ嶋ニ群居』
“道東アイヌ・道北樺太アイヌ・渡党(アイヌと和人の混血)が三百三十三の島に住む”
と記録するのだから、当時の日本は、既に樺太はおろか千島列島も認識していたのである。それらは「我國」であり、蝦夷は、日本に属する人達であった。一〇六九年摂津国秦致貞作の『聖徳太子絵伝』は、「蝦夷への重禄の下賜と鎮撫」を描く。一一二六年、奥州の藤原清衡は、中尊寺への願文で、奥羽の安泰を宣言するなか、『粛慎挹婁之海蛮』(蝦夷地・樺太のアイヌ)が自らの徳を慕って朝貢してきたと述べている(中尊寺供養願文・平安遺文二〇五九)。すなわち、平安時代後期には、蝦夷を日本に属する者と扱ったのである。このあたりを勘案すると、日本は当時から、和人・渡来人の子孫・蝦夷が住む「多民族国家」であったことが窺える。京に足利将軍家が立ち(征夷大将軍・日本国王)、関東に鎌倉・古河公方が立ち、津軽・蝦夷地に安東家(奥州十三湊日之本将軍)が立ち、蝦夷地の奥地と樺太・千島列島にアイヌ・和人とその混血が雑居する。それが、当時の「日本」。「十五世紀の日本のConstitution(国家体制)」であった。
一四六八年二月、安東政季は紀州熊野神社に願文を納めている。
『津軽外浜宇楚里鶴子遍地悉く安堵せられん事』
“津軽・函館・松前の地を、ことごとく安堵して下さい”
こうした願文を、安東家がわざわざ畿内の寺社に納めたという事実は、当時から蝦夷地が日本の統治下にあったこと、当時の国家観を示すに証左に他ならない。すなわち、蝦夷地と周辺諸島の領有起源は、「平安時代~鎌倉時代初期」に遡るべきである。
なお、一四七五年、武田信広は樺太アイヌから貢物を献上され、樺太を支配下に置いている。一四八二年、『李朝実録』には、『夷千島王遐叉』が李氏朝鮮に使者を送ったとある。
で、こうして歴史を眺めていると、
世界の歴史の当たり前を考える訳です。
「時代によって、国々の領域は変遷する」
すなわち、ある時代にはA国の領土だった場所Cは、
別の時代にはB国の領土になっている。
(ヨーロッパ史でいえば「アルザス・ロレーヌ地方」)
場合によっては、A国もB国も、遥か未来に、
統合されているのかもしれない。
本作は「上からの視点」は用いないので、あくまで「場所Cに生きる人達にとっての幸せは何か」を考えてみます。
すると、結局、幸せとは「Cの人達と、その関係者の経済繁栄が一番」だという結論に至ります(Cが繁栄すれば、A国もB国も、経済的な波及効果を受ける)。
その視点で、もう少し蝦夷地の話を続けます。




