【北国動乱1―檜山安東家の蝦夷地統治体制の成立―】
一四四〇年は、“新羅三郎義光(源義光)”の子孫、武田家にとって飛躍の年となった
『大将軍左大臣義教公賜若州』(新羅之記録)
“将軍足利義教公が、武田信栄(安芸分郡守護・武田信繁の嫡男)に若狭を下さった”
大和の陣で一色義貫を討った功である。六月、信栄は若狭国大飯郡の高浜に入った。
『依昔者令守護甲斐國安藝國若狭國謂三武田』
“これにより、甲斐・安芸・若狭の守護を「三武田」と呼んだ”
だが、七月二十三日信栄が急死し、若狭は弟信賢が継いだ。『新羅之記録』によると、信賢の一子に信広がいた。信賢が弟国信に若狭を譲ったため、対立した信広は牢人したという。
一四四二年、津軽の安藤盛季が南部義政(娘婿)に十三湊を追われ、一四四三年に蝦夷地(北海道)松前に逃れた。一四四五年、盛季は津軽西浜に南下したが、子の康季が引根城で病死し、下北で逼塞した。最北の変事は、若狭と無縁ではなかった。蝦夷地・津軽は、日本海を通じて若狭周辺と繋がる。一四三六年、康季は若狭羽賀寺を勅命で再興し、奥州十三湊日之本将軍と認められている(若州羽賀寺縁起)。また、蝦夷地・志苔館からは、一九六八年大甕三個が発掘され、二個は越前産・一個は能登産で、明銭四十万枚が詰まった。
『寶德三年三月二十八日密出國於夜中是併依繁綱与祐長之計略』
“一四五一年三月二十八日、信広は佐々木繁綱と工藤祐長の計略で密かに若狭を出た”
信広はしばらく関東の足利に身を寄せた後、はるか果ての下北半島(津軽東)に北上した。
『享徳元年三月來奧州田名部知行蠣崎而後伊駒安東太政季朝臣同心渡此國』
“一四五二年三月、奥州田名部に来て蠣崎を知行し、安東に同心して蝦夷地に渡った”
一四五三年十一月九日、安東(藤)康季の子義季は、津軽大浦郷の狼倉館で南部に敗れて自害している(安東下国家が断絶)。一四五四年、後を継いだ安東師季(盛季の甥の子)が、蝦夷地・上国花沢館の蠣崎季繁(娘婿)を頼っているから、信広もこれに従ったのだろう。
『立去若州乗商舶來當國而爲安日政季朝臣之聟号蠣崎修理大夫住上之國』
“蠣崎季繁は(武田信繁近親だったが)商船で若狭を去り、安東の婿として上国に住んだ”
信広は、副将として花沢館に入った。十一月二十三日、東国・奥州は大地震と大津波に襲われている(享徳地震)。かの大災害は、東国では享徳の乱の導火線となって“戦国時代を誘発”し、奥州においては“本州から蝦夷地への人の移動を促した”ことになる。
一四五六年、体勢を整えた安東師季は、湊安東惟季(分家)の招きで蝦夷地から出羽に上陸し、葛西秀清を討って檜山郡を本拠とした。次いで、蝦夷地に守護を置いた。
●檜山安東家の蝦夷地(渡島半島南岸「十二の和人領主」)支配体制:①下国守護:茂別館館主・安東家政②松前守護:大館館主・下国定季③上国守護:花沢館館主・蠣崎季繁
こうして、檜山安東家による蝦夷地の間接統治体制が成立した。師季は将軍足利義政から偏緯を受けて「政季」と改名し、南部家が支配する北東の津軽への侵攻を始めた。
当時流れた噂によると、
武田信栄は「小浜の有徳人(金持ちの有力者)」とイザコザを起こしていたようです。
信栄の急死は、若狭の現地人との対立が背景にあるようですね。




