【堀越公方】
一四五六年、“古河公方”足利成氏は、新天地を切り開くことに成功しつつあった。今川範忠は、前年掌握した鎌倉を動かない。鎌倉確保と背後の畿内を気にしている。
前年、畿内では畠山義就が、七月に大和に侵攻している。畠山弥三郎が筒井順永・箸尾宗信らと結託し、勢力を築いたからである。十一月二十日、河内大和を平定して河内から上洛する義就を、管領細川勝元は舅山名宗全(未だ但馬に隠棲)と共に、傍観する他なかった。幕府は「大和問題」と「畠山家内紛」に掛かりきりとなっていた。
将軍義政は、側近有馬元家(赤松一族)の影響で、山名宗全を嫌っている。宗全牽制のため、畠山弥三郎の討伐と、赤松再興の筋書きを進めていた。宗全は大内と婚を通じている。そのうえ管領細川勝元に娘を嫁がせていた。山陰・播磨備前の山名は、北九州・周防長門の大内、瀬戸内・四国の細川と連合した形となる。西国の海上権益が、宗全一手に集約される形勢。これは幕府の交易政策への挑戦であった。宗全は父義教が横死した時、土倉(幕府昵懇の金融)を襲った。いかに強大になろうと、二度と幕閣には付けぬ。義政は畿内を優先し、関東を後に回した。放置された古河の成氏は、時を得たのである。
幕府は鎌倉と大和の二方面に軍事展開したまま、東進を止めた。一月、成氏は状況を活用し、十九日南方戦線の下総に派遣していた簗田出羽守らに、市川城を陥落させた。千葉実胤が石浜、自胤が赤塚に逃れた。これで南は安定した。二月二十六日、今度は西で、武蔵の上杉方による上野南部への北上を阻止し、三月三日東の茂木で衝突した後、この戦線を膠着に持ち込んだ。その上で、四月四日、成氏は京に対して外交攻勢に出た。だが。
『御返事も不被仰下』(鎌倉大草紙)
“(将軍・管領は、成氏の「野心はない」という申し立てに、)返事も寄こさなかった”
上野と下野では散発的な衝突と対陣が続き、関東は底なき戦乱に嵌まった。
『人民耕作をいとなむ事あたはず。飢饉して餓死にをよぶもの數をしらず』
“民は耕作をできなくなり、飢饉で餓死する者が数知れなかった”
この「享徳の乱」の頃から、東国諸将が日常から使う恒常的城郭を次々と構築していることが指摘されている。諸国で武備が整えられ、安房の里見は国境に軍勢を出し、相模の三浦義同は三浦から岡崎城を奪取し、大森安楽斎父子は竹之下から小田原城を攻め盗った。
一四五七年四月頃、扇谷上杉の家宰・太田資長(のちの道灌)らが江戸城を完成させた。扇谷上杉が続いて河越城の構築を進め、相模・武蔵を固めるなか、十二月十九日、義政は庶兄の香厳院を関東に派遣することを決め、還俗させた。足利政智(二十三歳・母は赤松一族の宮内卿)である。こののち、政智は伊豆に到着し、三嶋大明神で元服した。
『伊豆の北條に堀越といふ所にかりに屋形をたて。伊豆國を智行せらる』
“伊豆国北条の堀越という所に仮の御所を建て、伊豆を統治された”
機を見て、関東入りさせてもらう。堀越公方である。
⚫︎補足1:
足利政知は、1458年になっても京周辺にいて、4月にようやく門出が決まった(在盛卿記)。
『鎌倉大草紙』では、1457年12月中、伊豆に到着したとありますが、実際は相当グダグダな出立だったようで、
政知の前途は多難でした。
●補足2:
足利政知は、義政よりも一歳年上の異母兄でしたが、義政の母日野重子に気兼ねして、当時、”弟”扱いされていました。
ですが、まぎれもなく、兄です。
あー、ややこしい。




