第二章 応仁の乱 【両雄の前提】
一三八九年、足利義満は諸大名を引き連れ、厳島に参詣した。西国大名への牽制の他に、目的があった。久しく四国を固め、国許に留まる“老父”。讃岐国宇多津でようやく会える。
『かの入道こころをつくしつつ、手のまひ足のふみ所しらずまどいありく』
(鹿苑院殿厳島詣記)
“細川頼之(常久)入道が、心を尽くして歓待し、いそがしく動き回った”
将軍・足利義満、三十二歳。元管領・細川頼之六十一歳。実に十年ぶりの再会であった。
老父は変わらないでいてくれた。厳島からの帰途。義満は再び宇多津に寄った。
『武蔵入道めされて、はるかに御物がたり有りける』
“上様は頼之入道を召されて、非常に長い時間、話し込まれた”
厳島参詣に同行した、今川了俊の記すところ。
『何事にか有けむ、なみだををさへて、まかでけるときこゆ』
“何事があったのだろうか。頼之入道は、涙を抑えながら、退出していったという”
勇躍した頼之は、翌一三九〇年叛乱した山名時煕の備後を抑え、更に一三九一年義満の招きで上洛した。養子(弟)細川頼元が管領に就任した。そして十二月、「明徳の乱」が起きた。頼之は細川一族を指揮し、内野で山名氏清・満幸を破った。一三九二年三月二日、頼之が六十四歳で亡くなる時、細川一門の領国は、八ヶ国に拡大していた。
これ以降、細川・京兆家の地位は、盤石となった。のち、領国は九ヶ国に及ぶ。
●讃岐・土佐・摂津・丹波(京兆家)、和泉・阿波・備中・淡路・三河(一族):123万石
細川勝元の父持之は、一四四二年までの十年管領を務め、病死した。八月、勝元が僅か十三歳で家督を継いだ時、一族家臣は団結し、勝元を無事成長させた。勝元は、一四四五年から一四四九年と一四五二年から管領を務める。これが、応仁の乱一方の当事者である。
他方、山名は明徳の乱で敗れる前、領国十一ヶ国を数えた。日本国六十余衆の六分の一を占める「六分一家衆」。だが、明徳の乱で、一族内紛に付け込まれた山名は、三ヶ国に削減された。義満に翻弄されたあげく、ようやく生き延びた時煕に残された道は、足利将軍に対する服従の道であった。以来、義満・義持・義重・義教の四十余年、時煕は篤実の仮面を被り続けた。一四三二年、侍所別当(京長官)となり、一四三五年亡くなる時、領国は七ヶ国に回復していた。そして一四四一年、子の持豊(宗全)の代で嘉吉の変が起きる。
●備後・石見・安芸・伊賀・但馬・播磨(本家)、備前・美作(一族):122万石
両者の主は、足利義政である。「義成」の名は、一四五三年六月に捨てている。
『幼君名字義成二字、亦皆從戈字、必与鹿苑相公同武德』(臥雲日件録抜尤)
祖父義満(戊戌の年に誕生)の武徳にあやかれと、「戈」を意味する二字「義成」の名が朝廷から贈られていたが、そもそも「戊戌」は「良くも悪くも大変革が起こる」という意味を持つため、「悪しき大変革」の可能性を嫌い、義政に改めていた。その予感は正しかった。




