【古河公方】
一四五五年五月、古河に在陣する鎌倉公方足利成氏は、鎌倉に近付く幕府軍を背に決断を迫られていた。亡き父持氏のように、鎌倉近くで幕府軍と戦い、死ぬか。それとも。
今あるのは古河城。父無き成氏を護るのは、利根川であった。成氏にとり、これまで利根川は、関東平野を分断する障壁であった。だが、京の将軍足利義政が敵に回った瞬間、利根川は自らを護る盾に変じたのである。鎌倉は捨てよう。鎖は断ち切らねばならない。
十三日、成氏は、鶴岡八幡宮の別当であった兄弟の定尊を上野足利に呼び寄せた。更に、信濃から大井氏(成氏逼塞時代の庇護者)を上野に送り込んだ。最も信頼する者達を、北関東に結集させたことになる。そのうえで、自らは東の結城に、陣を進めた。
●西方戦線(上野):岩松経国(大将)・岩松次郎、定尊(足利)、大井播磨守
●東方戦線(常陸):足利成氏(結城)、那須持資(大将)、小山・結城・小田・簗田・筑波
●南方戦線(下総):原胤房(千葉城)
成氏の登場に、東方は勇躍した。まもなく、上杉方の常陸国小栗城が陥落し、上杉方は下野に逃れた。その際、宇都宮等綱が参陣した。晦日、成氏は北西の小山で、下野に圧力を掛け、六月八日、上野で越後守護上杉房定(幕府方)の攻撃が開始したと知るや、十三日、西の天命に進んだ。上野まであと少し。上杉は、上野と武蔵中北部に封じられた。
だが、十六日、幕府軍大将・今川範忠が鎌倉に突入した。鎌倉を任す里見・木戸・大森・印東らが後退していく。鎌倉が落ちた。七月、宇都宮等綱が鎌倉公方軍を離反し、上杉方が下野で勢いを取り戻した。南東の茂木筑後入道が呼応し、東の烏山城の那須持資を釘付けにする。義政の御教書が、諸将を切り崩した。義政め、上杉に肩入れするか。
●東方(将軍・上杉派):宇都宮等綱・茂木筑後入道、山川兵部少輔、真壁兵部大輔(常陸)
七月九日、動揺した成氏は小山に後退した。成氏は、押しまれたかに見えた。
ここで、奇妙な流れが生まれる。南方戦線の下総で、千葉康胤(馬加家、当主胤直の叔父)が原胤房(千葉家反主流派)への与同を表明したのである。八月十二日、康胤は多胡城を落し、当主胤直の子宣胤を自害に追い込んだ。これに力を得た原胤房は、十五日志摩城を陥落させ、当主千葉胤直・円城寺直時を自害させた。平安以来の名門千葉家は本宗家を失い、南方戦線は鎌倉公方派が勝利したのである。以後、千葉家は康胤と、これに反抗する実胤・自胤兄弟(市川城、胤直の甥)に分裂した。
更に東方でも。成氏は下野国只木・天命に進む上杉勢を後退に追い込み、十月十五日、小山持政(成氏方)が下野で宇都宮等綱の南下を阻止した(木村原の戦い)。鎌倉の今川は北上してこない。鎌倉公方は古河で生き残るのではないか。この動静に宇都宮も分裂した。合戦後、成氏本陣を紀清両党(芳賀伊賀守ら、宇都宮の両翼)と宇都宮明綱(等綱の子)が訪ねた。家臣らの離反に、等綱は奥州白河に逃れた。十二月、西方でも、武田信長・一色宮内大輔らが、長尾景仲を破った。この時、成氏の自立は確定した。古河公方である。
というわけで、第一章完です。
注目ポイントは、
①明との交易利益が限定されてしまった足利将軍家
②西国に行脚してきた関東管領山内上杉の養子となって、京への足掛かりを得た大内家
③三管領のなか、唯一没落しなかった細川家
④本段の古河で生き残った足利成氏
ですね。
有名な「戦国時代」といっても、
まだまだ知らないことの方が多いと実感します。
織田家や朝倉家も出てきました。
例によって、ここらの話は、第四章以降の出来事のための伏線です。
これらを踏まえると大内義興・義隆や毛利元就らの行動の意味が、まるで違ってくると思います(勿論、信長らの行動の意味もです)。
というわけで、次段からは「第二章:応仁の乱」です。
●追記1:
下野国只木・天命に進軍してきた上杉勢は、後方の足利近辺に総大将上杉房顕も前進する、本命だったようです。
成氏は、岩松持国に後方を遮断させ、四方の路を封鎖して兵糧を断ち、上杉勢を撤退に追い込みました。
西を支え続けている岩松経国といい、
この時期は、成氏方として大活躍な岩松一族であった。
●追記2:
『今川記』によると、鎌倉には、『兵数千』が立て籠もっていた。今川軍は、一日一夜戦い、鎌倉を陥落させた。
『敵六百餘人首切かけ、悉く焼払ふ』
“敵六百人を討ち取り、ことごとくを焼き払う”
という、大激戦であった。
今川軍単独では、この大激戦一回を行うのが、
限界であったと思われる。
勝利した今川軍は、北東の足利成氏に対する追撃戦よりも、
占領した鎌倉の維持を優先し、進軍を止めた。




