【ヨーロッパ再編―英仏百年戦争の終結とコンスタンティノープル陥落―1】
英仏百年戦争の終局は、一四四九年八月から一四五〇年八月、フランス王シャルル七世によるノルマンディ地方の奪回を契機とする。聖女ジャンヌ・ダルクの活躍(一四二九年)でフランス王国は勢い付いている。劣勢のイングランド王国に対し、ブルゴーニュ公は同盟を破棄し、神聖ローマ帝国やブルターニュ公さえ距離を置き始めていた。
●フランス王―カスティーリャ王国ファン二世(アラゴン抑え、グラナダ内乱を見物中)
●イングランド王ヘンリ六世:本国―ノルマンディ公領・ギュイエンヌ地方・カレー
一四四九年三月、アラゴン人のフランソワ・ド・スリエンヌ(ヴェルヌイユのイングランド守備部隊)が、ブルターニュ地方フジェール城を奪取した。フランス王シャルル七世に口実を与え、ブルターニュ公を完全に敵に回しただけであった。強勢のカスティーリャ王が西から睨みを利かせるギュイエンヌ地方のイングランド勢は、遊兵と化したも同然である。八月、シャルル七世は、心置きなく、三方向からノルマンディーに侵攻した。
●「東:ウー伯、サン・ポル伯、中央:デュノワ伯、西:ブルターニュ公フランソワ一世」
国内さえ纏めれば、フランス王国の経済力はヨーロッパ有数である(ヨーロッパGDPの約21.45%、以下全て一五〇〇年基準)。シャルル七世は、勅令部隊(常備軍)・自由弓兵部隊(民兵軍)を率い、兵数でイングランド守備部隊を圧倒した。兵威と財力を背景に、シャルル七世は、侵攻先で次々と穏当な(税金の)降伏条項を提示していく。ノルマンディ諸都市は、こぞってフランス軍門に下った。一四五〇年四月、イングランド王ヘンリ六世は、五千の援軍を上陸させたが、フォルミニで敗北し、八月ノルマンディ公国を失った。
かくして、ギュイエンヌ地方がフランスとカスティーリャの間で孤立した。一四五三年十月二十日、シャルル七世は二回の侵攻で、ボルドーに「罰金三万エキュ・ワイン等への高関税」を認めさせ、遂にギュイエンヌ地方を掌握した。イングランド王国はカレーを除く大陸全領土を失い、フランス・カスティーリヤ連合は、西ヨーロッパで覇権を確立した。
イングランド王国の興隆は、ばら戦争とヘンリー八世の登場を待たねばならない。
だが、これらの動きを座視できぬ者がいた。オスマン帝国のメフメト二世である。フランス王国の強勢とグラナダ王国の迷走。これではカスティーリャの海賊が、東地中海で跳梁するばかりである。イングランドを駆逐したフランスは、次に東のブルゴーニュ公国(フランス王国東部・神聖ローマ帝国西部にまたがる厄介な外様)を弱らせに掛かるだろう。ブルゴーニュが硬直すれば、神聖ローマ皇帝が身軽となり、軍事行動の幅を広げる。
―「イタリア半島」が、神聖ローマ帝国かカスティーリャ王国に喰われてしまう―
●イタリア半島(ヴェネツィア共和国・教皇領・ナポリ王国・シチリア王国):約22.7%
●ブルゴーニュ公国(オランダ+ベルギーらへん):約3.8%
●神聖ローマ帝国(ドイツ+オーストリアらへん): 約19.0%
●イベリア半島(カスティーリャ・アラゴン・ポルトガル・グラナダ):約10.0%
すなわち、神聖ローマがイタリアを喰えば「ヨーロッパ経済41.7%を握る覇権帝国」が、カスティーリャがイタリアを喰えば「32.7%を握る強大王国」が誕生してしまう。
東地中海に覇権を築こうとするオスマン帝国にとっての悪夢であった。未だ好機の到来に気付かぬ、神聖ローマ皇帝がハンガリー王国と小競り合いを演じ、カスティーリャ国王がのんきにグラナダ王国をいたぶっているうちに。動かねばまずい。
―コンスタンティノープル(ビザンツ帝国)を放置できなくなった―
ローマ教皇やヴェネツィアと通ずる、かの都市を盗らねば、永久にイタリアに手が出せぬ。メフメト二世はマニサで通貨を発行している。刻まれるのはバシリスクとライオン。当時のイスラムの貨幣で、動物が刻まれるのは珍しい。つまりは、そういう人物であった。
メフメト二世は一四五一年、十九歳でオスマン帝国のスルタンとなった。即位後、最初に行ったのは兄弟の探索である。父の妃の一人であった女のもとに、生後八ヵ月の赤ん坊がいることを知った。新スルタンは、後継争いを防ぐため、幼児殺害を役人アリに命じ、そのあとアリも殺した。赤ん坊の母は自らの奴隷と再婚させたという。女を殺さず再婚させたことをもって、個人としては善人とみるべきか。判断に困る。晩年痛風に悩まされ、暴君と恐れられたスルタンの若き日の点景である。
ギリシア人歴史家ドゥーカス曰く、『血に飢えた野獣』・『羊の皮をかぶった狼』。一四五三年メフメトと面会したヴェネツィア人ニコロ・サグンディーノ曰く、『ふさぎ込みがちな性質』。つまるところ内向的で、自らの本音も含め、秘密主義であった。
嫌いなものは、父の時代からの宰相ハリル。一四四六年、父の存命中、一度この宰相に権力を取り上げられたことがある。宰相は、ビザンツ帝国との融和通商派であった。ある時、メフメトは杭に縛られた狐を見付けた。メフメトは、ハリルに賄賂を贈りさえすれば解放してもらえるぞと、狐に助言した。ある夜明け前、メフメトはハリルを枕元に呼んだ。宰相は、妻と子供達を抱擁してから、スルタンのもとに向かったという。
父ムラト二世のように、兵に混じり冗談をいうことはできない。自らを知るメフメトは、世界の地理と戦争技術の研究に熱心で、常に、慎重に調査してからことに臨んだ。ヴェネツィア人サグンディーノはそう記す。古今、こういう人物ほど手強い。
一四五一年夏、メフメト二世は東の小アジアへ、カラマン族トルコ人の討伐に遠征した。その帰路のブルサ、スルタンはイェニチェリ(親衛隊)に詰め寄られた。報償金を下さい。即位と初遠征を支えた見返りに他ならなかった。メフメトは、内心憮然として金貨十袋を下賜した。まもなく、ビザンツ帝国の使節が到来した。交渉内容は、「コンスタンティノープルで快適な幽閉生活をさせているオルハン(オスマン皇帝の一族)の対価として、トラキア地方から得ている税収を“二倍”にしてほしい。さもなくば、成人したオルハンにスルタンの地位を要求させる」。相手を考えない恫喝外交であった。宰相ハリルは激怒した。何と愚かなローマ人よ。ビザンツ帝国融和派の自分も、誅殺される。ハリルは、アドリアノープルに帰ってから返事すると、何故か穏やかに答える主君の様子に、嫌な汗を流した。




